カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

リサイクル税

プラスチックが汚れているとプラスチックごみに出せないという。燃えるごみに出すのだそうだ。プラスチックをリサイクルの輪に乗せるためには洗わないといけない。つまりリサイクルのためには余計に税金を払え、ということだ。どうにも納得が難しい。リサイクルに協力しているはずなのに、協力するには身銭を切って腹を痛めねばならない。

しかし、そもそもリサイクルに協力するという観念が間違っている。我々の環境を我々が保全するのだ。協力ではない。社会的責任だ。リサイクルに身銭を切るのは当たり前なのだった。だがしかし、リサイクルにしないなら、燃えるごみに出すなら腹を痛める必要がない。面倒がりの人や――僕がそうなんだが――、貧しい人――僕がそうなんだが――、そういう人は環境保護を行いにくい。行いにくく、行わなければ社会的無責任者になるということだ。ハンデを負っているというのに。

これは消費税みたいな税を課すべきなんじゃないのか。プラスチックを工場でいちいち洗浄する費用を税金でまかなうのだ。汚れない商品に課す必要はない。逆に油汚れが着くような商品には多く課すことになるかもしれない。自然環境への悪影響が強いものを消費する人が多く支払い、悪影響の少ないものを消費する人は少なく支払う。これまでの費用発生の価値観とは異なる新しい価値観が生まれることになる。受け入れられにくいと思うが、必要なことじゃなかろうか。

とはいえ現実にそぐわない。プラスチックごみの処理が追いつかず金を払って輸出しているらしいじゃないか。輸入した側の国でも処理できず放置されたプラスチックごみが野ざらしになっていると聞く。身銭を切ってリサイクル活動をした結果が放置されたごみの山では納得できない。社会は徐々にプラスチックごみを減らす方向へ動いているようだが、実りの時期は遠かろう。今は結局、今のままが現実的なのかもしれない。何も変わらない、何も変えられない、べっとりとした無力感がまとわり付く。世の常だ。しかし、昨日より今日は、今日より明日は、気付かずとも年齢を重ねているように、感じられない変化の中で希望の火を灯し続けるしかないのだろう。人生は難儀だな。