カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

感謝は静かにすればいい

Xには「感謝の心を忘れない」ことをことさらに公言する人がいる。感謝の心を持つことはいいことだ。感謝できる精神性を持ち続けることはいいことだ。だけどそのことと「感謝の気持ちを忘れない」と公言することは違う。

感謝とは自然と湧き起こる感情であって、しようとしてする「行為」ではない。であるなら、ただ感謝をしていればいい。感謝の気持ちを伝えればいい。感謝とはそういうものだ。にもかかわらず自分は感謝の心を忘れないぞ、と宣言することには別の意味が潜在している。

酔っているのだ。感謝している自分に。「感謝の心を忘れない」という行為をしている自分は美しい、と自己陶酔している。コンプレックスの一つだ。または別のコンプレックスから来る反動的な感情だ。健全ではない。

このことを理解したのなら自分と向き合ってコンプレックスを解消すべきだ。美しい自分に酔っているのは気持ちいいことだろうが、それは自慰行為だ。そんな恥ずかしい姿をさらしてはいけない。自分自身を見つめて、自分自身の人生をよりよいものにするべく努力したほうがいい。それは健全な姿で、自分に酔うよりも幸福をもたらす。

小説の下書きができない

小説制作をする人がしばしば下書きをすると聞く。文章表現を気にせず、話の展開をガシガシ書いていくようだ。中にはセリフだけで下書きして後に地の文で肉付けするとか。僕にはできない。

キャラクターがどんな反応をするのか、よくよく考えないと分からないのだ。解像度が低い思考で書いても、本番で解像度を上げると別の反応をすることがある。プロットの流れに反する行動を取るとしたら、軌道修正のためのシーンが必要だ。そうすると話の展開としてはガラッと変わってくる。下書きが意味を成さなくなるのだ。

キャラクターの反応だけではない。物理現象や魔法をトレースするのに浅い考えの場合と、よく考えた場合では出来事が変わってくる。激しい炎が巻き起こったとして、考えが浅い場合には周囲の人が驚いて取り巻いているかもしれない。だけど実際にそんな炎があれば熱線が熱くて近寄れない。距離を十分開けるために逃げなければならない。こういう違いによって下書きが成り立たなくなる。

僕はうっかりした人間なのでサクサク進めると考えが及ばないのかもしれない。はたまた人は細かいことを気にしないのかもしれない。なんにせよ僕は下書きに懐疑的だし、下書きしないで書くのに慣れてしまった。僕には僕のやり方があるということだ。

日記 - 2024-10-13 なかなかの日だった

4時前に起きた。眠い。濃いコーヒーを飲んだ。眠い。

甘い汁が飲みたい。ざっくり言ってジュースが飲みたい。塩水を飲むのは飽きた。水道水は飲めない1L飲むと体が痒くなる。塩水である必要がある。

フィードバックを受けると面倒になる

またGitHubでフィードバックが届いている。4件目だ。なんで急にそんなことに。全部放置しているけど、いいかげんどうにかしないとマズいだろうか。

返事をしておいた。問題だらけだった。そんなに問題のあるプログラムだったら使わなきゃいいじゃない! もうほっといてよ! って思っちゃう。苦しい……。

今僕はショックを受けて混乱している。時間を置かないと対処できない。でも時間を置けば落ち着いてきて一つ一つ対処できるはずだ。それにしてもこのプログラムはブラウザのSafariに対応していない。最近になって気づいた。この問題を解決したら、他のことも上手くいくかもしれない。

たくましき心

暖房をつけてベッドに寝転んだ。承認欲求が高まっている。夜なんかも高まる。夜は体調が悪くなるからだと思う。今も精神的に具合が悪くてだと思う。心が満たされていないと承認欲求が高まるんだ。

承認欲求お化けになっている絵描きさんや物書きさんは多い。心に余裕がないのだろう。現代社会の闇かもしれない。世の中(というかX)では親切心も減っているようだし、みんな余裕がないんだ。金回りがいいだけでずいぶんと改善されると思う。金は幸せにつながるんだよ。

根本的に改善するなら精神修養が必要だ。自己肯定感が体調によらず持続して高くなるよう自愛を深めたり、問題に直面しても自分をあやして落ち着いて対応できるようにしたり。精神の体力みたいなものを増やす方向性と、自分の取り扱いの技術を高める方向性で、心を強くする。難しいね。

労すれば疲れる

昨夜LINEオプチャで自称中学生が「民主主義を強要する」ことについて話していた。皮肉めいて言っていたから論点がどこにあるのかよく分からない。ただ民主主義を信奉する人は多い。でもこういう観点には「人間が求めるのは幸福のみ」であることが抜けていたり、幸福を実現するために民主主義が必要であると考えていたりする。このあたりについてブログ記事「民主主義? それって幸せなの?」をさっき書いた。そうしたら疲れた。何もする気がしない。

こもごも

しばらくウダウダしていたけど眠くなったから寝た。寝る前はすっかり気分が低下してしまって不幸な思いがしていた。人類の幸福について考えると不幸な気分になる、という気がする。まぁ哲学的な考え一般だろうか。どうも向かないみたいだ。寝るのは1時間だった。10時前に目が覚めた。

ファミマでタバコを買うついでにドデカミンとウィルキンソン GO テイスティアップルを買ってきた。ドデカミンは一気に飲んだ。栄養補給だ。味わっている場合ではない。

今は悪くない気分だ。だけど上がっているでもない。むっつりしている。Perfumeをかけてノリをよくすることにした。よくなるといいな。

グチが社会構造に発展

小説制作のコミュニティに所属していて思うのだけど、技術の向上を求めて集まる人はない。男は自分のフィールド(特撮とか小説とは関係のないもの)でダベることが目的で、女は共感したりしてもらったりするのが目的だ。小説制作のコミュニティに集まる意味はない。単に自分のラベリングが適合しているから参加するのだ。

僕は勉強会と名がつくような堅苦しそうなところに参加したくはないけど、コミュニティには技術向上を求めている。自分の気づきを話したり他人の意見を聞いたりしたい。しかしそれは叶わない。この文章を書く中でそのことを痛感してアホらしくなってきた。コミュニティの一つは僕が管理者だからやめるのも難しいけど、もう一つはなぁ。ま、やめる必要はないからいいけど。

そういえば母は仕事について向上心の高い人だ。キリキリやって高効率で高品質な仕事をしたいようだ。周囲にそれを強要するから迷惑がられているらしい。「私たちはあなたとは違うので」と拒絶された話を腹立たしげに語っていた。こういう問題は僕は高校生の頃から認識している。部活やサークルで向上心の高い人と高くない人の間に溝ができるのだ。サークルで僕は責任者だったので多少気を遣っていたかな。

前述からすると他人のことは見えているのに自分のことは見えていないらしい。僕は異端な存在のようだ。普通の人は向上心が高くない。ムリせず生きたいのだろう。人生観が大きく違っていそうだ。政治的な話でいくとサイレント・マジョリティだろうか。このあたりのことはよく分かっていないと社会で失敗しそうだなぁ。

生き様

近くのイベントで買ってきた炊き込みご飯が昼食だった。母は僕がそのイベントを知っているつもりでいろいろと話をしてくれた。なんのことかたずねたりすると機嫌を損ねるので想像で聞いていく。どうも200軒くらいの規模で言う町内で夏の終わりにイベントをやっているようだ。そんな話は聞いていない。

そもそも両親にとって僕が人前に出ることは避けたいことだ。アラフィフのニートはみっともなくて恥ずかしいらしい。なので僕がイベントに参加する線はなく、であるなら教えることはしないし、教えないほうが都合がいい。それでいて母は僕が知っているつもりで話をするのだ。

なんという自己中。なんという厚顔無恥。だがたくましい。そうやって困難な人生を生き抜いてきたのだ。生き様を見せられた感じがする。なんというか、繊細じゃやっていけない厳しさが世の中にはある。今どきの人間が生きにくいのは厚かましくないからなのかもしれない。いいんだか、わるいんだか。

手書きコーナー

手書きをしていて

手書きからテキストデータに起こす技術が完璧になれば小説を手書きしてみてもいいかな、という気がする。執筆速度が著しく落ちるからサブプロジェクトみたいな感じで。文字起こししたやつをチェックするのは面倒なのでやりたくない。現状では僕のくせ字やらOCR技術の不完全さやらでムリだ。

生成AIに学習させるといい気はするけど、くせ字と言うだけあって統一的な崩れ方をしていないだろうから難しいのかもと想像している。未だそういうのが発表されないし。

キャズムを越えろ

小説制作のコミュニティで気になる発言があった。

絵描きの友達と食事に行って色々と指摘してもらった

流行りの作品の文体を勉強して真似て、媚びてみろ

イラストも流行りの絵柄や塗り方を研究して自分なりに真似ているから同じように字書きもやればいい

ブクマしてる作品を解体して構成を見てみろ

と厳しい言葉をいただきましたが真理過ぎました

要は読まれるためには読まれている作品のマネをせよ、という話だ。自分の好きなようにしか書く気がない僕には無縁のこと。でも「流行を研究する」のを怠っているのは事実だ。僕に必要ないことにせよ、一般的には必要なことで、僕はそれをやっていない。

一つでも作品を世に出せたら、僕は満足して次に進めるかもしれない。次、というのは自分の好きなようにではなくウケる作品を書くことだ。作家ならほとんどの人がやっていることを、僕もしたらいいように思う。でもなぁ、満足とともに成長が必要だ。

僕は世間でウケている「なろう的な作品」を見下している。であれば、僕にとって無価値なものに似せようと思えないのが人情だろう。なので、そこにある隔たりを越える必要がある。今の僕に存在しない価値観を得なければならないのだ。人生を懸ける大事業と言える。

だったら作品を一つ世に出すくらいじゃ足りない。たくさん書いてウケたりウケなかったりしないと(僕はウケる線しか見えていないけれど)。生きているうちにできるだろうか。僕にとっての小説制作は一筋縄ではいかない。

民主主義? それって幸せなの?

民主主義は幸福を生む構造として設計されていない。幸福を目指してはいるだろう。でもそんなことなら社会主義だって一緒だ。幸福を目指し、失敗した。民主主義はどうだろう?

自分たちのことは自分たちで決めよう、そのほうが幸せなはずだ。というのは単純すぎないだろうか。はいはいを始めたばかりの幼児に自分のことを決めさせたって幸せになれないのは明白だ。人類が産業革命その他によって知恵を得てからずいぶん経つような気はするが、そんなことを思うのは人間の傲慢さゆえだ。1000年後の人類は生暖かい目で歴史を学ぶだろう。とはいえ、はいはいの幼児には導く親がいるが、僕らにはいない。自らあがいて幸せをつかむしない。

幸せについて勘違いしている人は多い。自由さや豊かさを漠然と思う人は多い。確かに言いたいことも言えなかったり、生活に余裕がなかったりすると不幸だ。だけど自由の大空間に解放されることや、便利な道具に囲まれていることが幸せなのかと言うと必ずしもそうではない。自由すぎれば何をしていいか分からなくなったり無軌道になったりする。便利な道具があっても幸せでないことは僕らがよく知っている。自由や豊かさは幸せの本質を突いていない。

古代ギリシアの奴隷や中世ヨーロッパの平民はそんなに不幸だっただろうか? もちろん苦しんだ逸話が多く残っているけど、苦しんでいるのは現代でも変わらない。修道女・渡辺和子の「置かれた場所で咲きなさい」とは天啓のように聞こえるが、人間の本質でもある。環境に合わせてそれなりに幸せを感じるようにできているのだ。いつの時代にもそれなりの幸せは感じてきた。でなければアウストラロピテクスは不幸すぎて全員が自殺しているだろう。そういう意味で、奴隷や平民を一概に不幸だったと言うことはできない。

不幸を呼ぶのは学びがないことだと思う。人生について、自分自身について、そして社会について、学びがあれば幸せを見つけられるような気がする。であれば奴隷や平民は学びが少なく不幸だったとも言えるのだけど、ただ、当たり前の人権がなかったことと不幸なことは直接的につながってはいない。

社会体制と幸福は別けて考えるべきでないだろうか。民主主義が正常に機能すれば幸福が得られるはずだ、という妄想は捨てるべきだ。民主主義の我々はそれ以外と比べて幸福だ、という思い込みを捨てるべきだ。幸福を得るために何をすべきか、僕らは真剣に考えていく必要がある。

日記 - 2024-10-12 なかなかの日だった

3時半くらいに起きた。ボーッとしていた。気分が優れない。眠い。濃いコーヒーを飲んだ。しばらくして目がさえてきた。気分もマシになった。酢を飲んだ。何をしたらいいかよく分からない。

寂しい気がする。少し前にエアコンを暖房でつけた。霧吹きで顔をぬらしてタオルで拭いた。鼻をかんだ。気分が少しスッキリした。

飽きになりけり

小説制作をし始めた。お転婆のやつだ。百合のやつでもやっている情報開示の設定を始めた。情報開示では「世界観」「キャラクター性」「ストーリー上の情報」「謎」を管理する。読者が受け取る情報として扱うものだ。

百合のやつでやり始めて感じるのは、プロットというのは情報の集まりだ。プロットにある項目のほとんどに読者が受け取る情報が含まれている。作業を進めるともっと何か分かってくるかもしれない。

で、実際の作業に入ろうとしたら面倒くさくなった。百合のやつでもやっている作業で退屈なものだ。それを続けざまにやろうというのだから面倒にもなるだろう。プロットなしでやるやつを薦めようかなぁ。

順調ではある

小説制作をしていた。プロットなしのやつだ。本文を書いている。文体を意識せず自由な感じで書いている。このあたりはシーンにマッチした文体を意識すべきだと思う。でもとりあえず余裕がないし、楽に書くのが目的の作品だ。これでいい。

しかしまぁそれなりにバラけたいい文体だと思う。僕は見識が浅いから、いいと思っても実際にはそれほどではないはずだけど。でも本人が満足して書けているならいいかな。そんなに計画的に取り組むつもりはないし。

体調不良を乗り越えて

朝食の後は体調が芳しくない。体調というか精神的なものとか、自律神経の問題だと思う。今はベッドに寝転んでいるけど、少し休憩したら自律神経のツボでも押そうかな。こういう治療的な行為は早いほうがいいと思うけど。

しばらく横になってブログ記事「若年者は日本語が不得意」を書いていたら気分がマシになってきた。起きて自律神経のツボ「労宮」を押した。5分くらいしたら調子よくなるんじゃないだろうか。そんな急によくなるツボではないかもしれないけど。

手入れ

万年筆が書けなくなっていた。久しく使わないとインクが乾燥してこびりついて詰まってしまう。分解してちょっと熱い湯につける。そのまま2日(2日も開けたのは処理が面倒くさかった)。取り上げて水洗いして感想に1日。インクカートリッジを刺して逆さにして1日。そして今さっき書けた! 書けるようになっていた! 出たよー!

偽ガジュマル

op: 10
title: 光の木
technique: 色鉛筆

机の横にある小さなガジュマルをモデルにした。なんか木が描きたかったのだ。本当はもっと葉の茂ったものにしたかったけど描くのめんどいし。まぁモデルのガジュマルもさほど葉がないし。小さいからね。

色を混ぜることに喜びを感じる気がする。混ざったときの変化が面白いのだ。特別な色のように感じる。もしかしたらCMYKだけで描いたら僕の好みの画法になるかもしれない。いっぱい描かないといけなくて面倒そうではあるけど。

下手な絵だけど続ければそれっぽくなるのだろう。小説制作も7年やって少しくらいは見られるものになってきた。だいたい10年やればそこそこになれるんじゃないか。なんでも。作画が10年になる頃には57歳。還暦も近い。いい年でそこそこの絵では格好がつかないかもしれないが。いいんだよ、僕は変なおじさんだから。

ボヤボヤ

小説制作をしないでのんびりしていると楽でいい。今がそんな気分だからだけど。穏やかにボヤボヤ過ごしたい感じだ。小説制作をするときは割合にエネルギーがある。ボヤボヤしているようでいてエネルギーがくすぶっているのだ。回転し始めるとよく回る。

今日はそういう感じがない。濃いコーヒーを飲んだけどたぎってこない。体を起こしているのも面倒になってベッドに寝転んでいる。

楽に書くつもりの小説でプロットなしのやつがあるけど、あれでも書くときはあふれそうな思いに耐えて書くような気分がしている。だいたいはエネルギーがあって耐えている自覚もないのだけど。のんびりした今思い起こすと耐えているふうに感じられる。

モードとエネルギー

ちょっと元気が出てブログ記事を書いていた。「努力は存在しない」とかを書いていたのだけど、論理思考モードになってしまって感性が働かなくなった。若干不機嫌な感じだ。なんとも面白くない。

気分が上がればと思ってPerfumeをかけている。易々とは上がらない。やっと日記を書く気分になったくらいだ。書いているうちに上がってくれるといいな、と思いながら書いている。でもも11時だし元気が出たところであまり活動できないだろう。昼食で気分が変わることに期待するほうがいいかもしれない。

エネルギーが足りないかもしれないと思って砂糖水を飲んだ。暑くなった。エネルギーが補給された証拠だろう。気分は上がらないけど。でも寒さに対するには暖房より砂糖がいいかもしれないと気づいた。光熱費より砂糖代のほうが安そうだ。太りそうではあるけども。

衛生観

昔テレビで紹介していた。風呂に微生物だか藻だかを繁殖させることで湯を入れ替えたり風呂を洗ったりすることなく入り続けるというのだ。風呂の湯はすごい色をしていた。当時の僕や両親は愚かだから信じられないものを見る感じだった。今思えば、人間の体から剥離する垢であるとか汗に含まれる成分を吸収してくれれば雑菌の繁殖が抑えられるから衛生的と言えなくもない。衛生の観念が問い直されるけども。

バランス取らない

小説制作をしていた。プロットしないやつだ。第2話を書き上げて終了した。あー疲れた。文字数がちょっと少なくて1881。セリフがほとんどないエピソードだったしこんなものかな、とも思う。本格的に書くならセリフを登場させるよう構成を考え直す必要があるだろうけど、そういう面倒なのはしない。いいことにしている。

というかストーリー上の都合いい展開が今のものなので、ストーリーを崩してセリフを入れる必要があるのか、という気もする。何がちょうどいいんだろうね。

今のところ1エピソードが2000文字くらいなので、3か4エピソードで30分アニメ1本分かな、という気がする。2エピソードで1本分くらいがちょうどいいけど、これも面倒だから調整しない。とにかく書きたくるだけにする。

手書きコーナー

万年筆ブルース

手書きコーナーを万年筆で書こうとした。というかそもそも手書きコーナーを書くために万年筆を取り出し、書けなくなっていたから何日もかけてメンテナンスしていたんだよ。で、書いてみたら思うように書けない。なんで。

万年筆はボールペンと違ってペン先に向きがある。上手く紙に当たっていないとインクが出ない。軸を倒す角度とか、軸回転の向きとか。で、僕は書いていると自然に軸を回してしまうみたいだ。少しずつ。なのでしばらくすると書けなくなる。めっちゃ不便。

なんだよー! 書くのに技術が要る道具ってどうなんだ。火をつけるのに技術が必要だった時代を思い起こさせられる。木の棒でこすったり、火打ち石でたたいたり、なんかそんな技術が必要な時代じゃないんだよ今は。

とは思うけどパソコン入力するにはタッチタイプの技術が必要だしなぁ。なんだろう。何か複雑な思いがする。