カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

伝統的差別問題について

僕は田舎者ゆえなのか嫌中だし嫌韓だ。思想としては嫌ったり下に見たりしているわけじゃない。だけど心の深いところで嫌っている。僕としては、祖父や父、社会に洗脳されたのだと主張したい。だって他に嫌う理由なんてないんだもの。身近にいて嫌な思いをさせられたわけじゃないし、中韓からの度重なる慰謝料請求の話なんて子供の僕は知らなかった。中韓を嫌うのは僕のせいじゃない、僕を責めないでくれ、と叫びたい。

で、伝統的差別問題について同じ構図なのかというとまったく違う。僕は伝統的被差別者に差別意識はない。幸い、子供の頃に話を聞くことがなかったのだろう。嫌悪感というようなものは全くない。中韓に対するようなものが存在しないのだ。だけどちょっと面倒な認識を持っている。

父から聞かされたことがある。伝統的被差別者の女性と結婚の話が出るところまで関係が進んだ男性がいたそうだ。するとある日、女性の家族、親戚一同が一斉に押し掛けてきて無理矢理のような形で結納を済まされたのだとか。伝統的被差別者と知れて結婚を断られてはいけないからだ。本人同士はよくても家族や親戚から圧力がかかるかもしれない。父曰くところによると、伝統的被差別者にはそういう恐ろしい面がある、のだそうだ。

この話をどこまで信じるのかは別として、しかし伝統的被差別者には伝統的被差別者の文化があるのは確かだろう。本人たちが望まなくとも周囲から特別な影響を及ぼされる。また本人たちは自覚的だ。その中で培われたものが、良きにつけ悪しきにつけ、一人ひとりの心の中に息づくのだ。僕の中にある嫌中嫌韓のように。いや、そんな薄暗いものを持ち出さなくとも関西には関西の気質、東北には東北の気質というものがある。それと同質な伝統的被差別者の気質があるのではないだろうか。

こういったものの中に望まれざる側面があるのだとしても不思議はない。むしろ関西人にも望まれざる気質はあるだろうし、東北人についても同じことが言えるなら、やはり伝統的被差別者についても言えるはずだ。そのことをかたくなに否定する行為を僕は好まない。事実は事実として認めるべきだ。その上でお互いがどうあるべきか考えることが重要なのだと思う。

だけど現実はそう言っていられない。しばしば右の人と左の人が譲り合うことなく殴り合う。譲歩は負けだ。世の中は必ずそういう構図になる。人間の性だろう。争いはなくならない。それなら伝統的差別問題もなくならないのか。

否。これは放っておけば自然と消えていく。時代がそうさせるのだ。今どき伝統的な価値観を継承する時代じゃない。新しい価値を見出し生みだすときだ。こう言っては叱られそうだが、伝統的差別問題なんてどうでもいい。興味がない。それより一緒にスプラトゥーンしようぜ。それでいいんだ。