尿意とは煩わしいものだ。如意とはいかない。わずかな尿意は無視できる。節水(水道水を作るためにもエネルギーが必要であり、節水は地球環境の保護につながる)のためにも多少の尿意は我慢して、最大尿意で放尿したいものだ。しかし僕は尿意が近い。水をよく飲む癖があるのだ。一日に3リットルは飲む。夏場はもっと飲む。尿意が近い。尿意を感じると落ち着いて考えられなくなる。そわそわする。だけど何か「尿意を我慢しながら作業する」ということに集中してしまうことがある。苛烈な尿意を感じているのに、作業がなかなかやめられない。尿意に邪魔されて集中して考えられないのに、集中できないことに集中してしまう。股間がじんじんする。独特の感覚。性感的なものもあるのだろうか。前立腺だかなんかと関係があるんだっけ。そのせいなんだろうか、早くトイレに向かわないと不快なはずなのに、留まってしまう。返ってこれが解放されるときの、案外ある不快感。それまで我慢していた不快感がどっと放出されるような妙な不快感がある。不快感を乗り越えると開放感につながる。安堵だ。これら一連の感覚は徐々にたまっていく尿意から始まる。尿意とは全く感じないときというのはどうなっているんだろう。膀胱が空っぽな訳ではないと思う。ある一定までは何も感じないようになっているのだ。閾値を超えると尿意を感じ始める。そうでなくてはおおよそいつでも尿意を感じることになるのだ。それでは落ち着かない。食事中、微妙な尿意を感じていては食事が楽しめない。とは言えいつが出し時なのか計らないといけないから、ある程度の尿意は感じないといけない。ある程度からはちゃんと尿意が認識できないといけない。寝ていてでさえも。尿意は微妙な存在なのだ。