カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

思考日記 - 責任追及と我慢

トイレ掃除しながら父が言う。汚い。不快げに、聞こえるように、不満を垂れる。父が掃除するより早い段階で掃除しろと言うのか。子供の頃は家の手伝いなどさせられなかったし、させてもくれなかったのに。掃除しない大人になってから文句を言う。僕としては「お前らの手落ちだろう。文句を言われる筋合いはない」となる。いつまで経っても親と子という関係は失われない。子のことは親の責任だ。であるなら、嫌な思いをさせないでほしい。

常に因果の「因」の側に経つ親に言い逃れはできない。全てが親の責任だ。この言説に反発を感じる人はいるだろう。だけど論理、ロジックの問題だから覆せない。子に責任はない。子は無垢、無辜(むこ)だ。必ず親が悪い。

しかし親にも親がいる。親の責任は、親の親の責任だ。祖父母に責任がある。これはいくらでも繰り返せる。果てはビッグバンにまで及ぶ。ビッグバンがなければよかったのだ。この世界など存在していることが間違いなのだ。だが、例えそうであったとしても意味がない。誰も救われない。

つまり因果ではなく、今を見ないといけない。現状とはどうだ? 僕にとって父が満足するほど掃除するのは苦痛だ。僕のペースでやらせてくれるならいい。父はそんなこと許さない。今は関係がこじれていて意思の疎通ができない。交渉は成り立たない。であるなら僕には不可能だ。となるとその事態が父にとって苦痛だから、父は僕に文句を言う。文句を言われると僕は苦痛を感じる。ここで平衡が成り立つ。父は状況から来る苦痛に耐え、僕は父の文句から来る苦痛に耐える。我慢のし合いだ。

世界はよくできている。平衡が生まれたところに停滞している状況、というのが今だ。世界は常に平衡状態にある。平衡が壊れれば破局を迎え、そこへまた平衡が生まれる。

僕と父が話し合いを持ってお互いに妥協し合えばいいのかもしれない。どのみち相互に我慢しないといけない。だけど納得ずくの我慢だ。気持ちの上でずいぶんとマシだろう。僕と父はそこへ一歩を踏み出すことがお互いにできない。父はかたくなになるだろうけれど、僕は真摯に説得すべきなのだ。だけど怖い。「毎週必ずトイレ掃除します」と言って出ることができない。だから程度の低い「我慢のし合い」をすることになる。

今の僕は結局救われない。父を救うこともできない。救われるには自分から行動するしかない。自分から行動して上手くやりおおせるなら、自分も周りも救われる。救われたいなら、自ら行動すべきだ。