カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

思考日記 - 未来の僕って僕なのか

いわゆるボケ老人として介護されるがままの存在になったとして、そのときの僕は僕なんだろうか?

今の自分とそのくらいに乖離していると話がわかりやすい。ボケてしまって前後不覚、何が何やらわからない状態の僕は何者? 粗末に扱われたとして、そのとき感じる不快感は誰が感じるんだろう。少なくとも今の僕ではない。でも未来の僕だ。それはつまり今の僕が年齢を重ねていったら感じることになるんだろうか? すっかりボケてるのに? すっかりボケた僕は何者なのか。いや、ボケていなくても同じことが言える。

明日の僕を、今日の僕は感じることができない。明日の僕は、今日の僕の延長線なんだろうか? そうだと思ってきた。だけど今ここに疑念を差し挟む余地が生まれた。今の僕が過去から連続的だと感じているのは記憶があるからだ。過去という記憶が。おおよそ人は目覚めると前日の記憶を持っている。自分が自分だという認識も失われない。それらが自分に、過去から連続していると感じさせる。だけど実際に連続している必要はない。

眠った後の僕を完全にコピーして置いておけば、目を覚ました僕はオリジナルもコピーも両方が自分こそが自分であると思うはずだ。いっそ眠る必要もない。コピー技術が高くなり1ミリ秒でコピーができるなら、歩いている間にもコピー体が生まれるかもしれない。もう何も区別がつかない。そこで、じゃぁ僕ってなんだろう、と改めて考えてみる。

自分を規定するものはおぼろなものだ。過去という「記憶」と、今という「感覚」だけが真実と言えるのかもしれない。未来の自分が嫌な思いをするのは嫌だ。でも今の僕は未来の自分ではない。未来の自分と今の自分が同一的に感じられるのは、過去を引き継いでいるからだろう。論理的には未来の自分と今の自分を切り離すことができる。だけど現実は違う。

全てを未来の自分に背負わせて今の自分が好き勝手することは難しい。未来の自分が苦しむことを知っていて毒を飲むだろうか。「別人ならいいんじゃない?」とはならない。理屈をこねてもも未来の自分が別人になったりしないのだ。感覚的なものだから、感覚的に理解するには時間がかかるのかもしれない。とはいえ先々のことを放り出しては社会生活が送れない。

こういったあたりの深奥に迫るのは難しいのかもしれないなぁ。結局何もわからなかった。