カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

思考日記 - 親の資質

僕は親じゃない。親じゃないから思うのかもしれない。未だ親を許せていない未熟者だからなのかもしれない。だけど思うところがある。親は子を幸せにしないといけない。親の手で幸せにするのではなくて、子自らが自らの力で幸せをつかめるよう最大限の努力をしないといけない。

不幸の種がそこかしこに撒かれたこの世に生み出したのだ。苦の多いこの世に。もし子が不幸になったとしたらどうだろう。不幸を味わわせるために生んだようなものだ。不幸の中で生きて不幸の中で死んでいくのだとしたら生まなかったほうがよほどいい。そうならないために最大限の努力が必要なのだ。でなくては外道だろう。前述のように、不幸を味わわせるために生み出したとしたら、外道や鬼畜以外の何物でもない。

では子のために全ての時間と労力を尽くすのかというと、それは違う。それでは足りないのだ。子を幸せにするには親自身が幸せでなくてはならない。心底不幸な親が子の教育をできるだろうか。親にこそまず幸せが必要なのだ。それは簡単なことではない。

僕が思うのは若い頃の愚かさだ。十年後の僕は今の僕を愚かと嘆くだろうけれど、若い頃はさらに愚かだったのだ。自分が親になる可能性などいちいち真剣に考えることもなく、であればこそ自身が幸せを手にせねばならない義務に自覚的でない。

僕は子を成せるような人生を送ってこなかった。過去には普通の社会人として働いていた頃もある。しかし当時でさえ親になる資格はなかった。貧しいし、家庭を持てるという気もしていなかった。今はその度合いが増している。精神的にも未熟だ。衝動的になりやすい。

だけど皮肉なことに、昨今は幸せの輪郭がぼんやりと見えてきたように思う。若い頃には思いもしなかった幸せというものが見えてきたような気がする。まっとうな幸せとは言えないけれど、今このときが幸せなのだという気がしている。この文章を書きながらセンチメンタルな気分になって両親に対する感謝に涙している。未だ子でしかない僕が親に抱かれて、やっと感謝の念を持てるようになったのだとしたら、ようやく人の親になる準備ができてきているのかもしれない。

それにしても、親は子とともに成長して親になっていくのだという話を聞いたことがある。そんなものなのかもしれない。親の資質を得てから親になるのでは遅い。人生はいつもそうだった。社会人になってから社会に出ていくのではなかった。仕事を完璧にこなせるようになってから仕事をするのでもなかった。きっとよき夫よき妻になってから結婚するのでもないだろう。であればよき親になってから子を成すのでもない。そういう意味では親とはそもそも罪深いものだな、などと思う。

なんだろうねぇ、親の資質って。