2023-03-10 競争は競い合う。誰かを蹴落として前へ進む。勝ち負けが決まる。競争は苦手だ。僕は負け嫌いだからだ。大体のことは負ける。勝てない。負けるのは嫌だ。競争はしない。競争は進歩をもたらす。市場原理がいい例だろう。共産的では競争が生まれず進歩が遅れる。市場原理があれば進歩が速くなる。だが勝者はいい思いをするが、敗者は残酷な状況に陥る。敗者の救済が必要だ。敗者になっても悠々暮らしていける土壌がなければ競争に参加する者が減って市場原理は衰退する。勝者による救済が望まれる。勝者は社会貢献すべきなのだ。勝者には勝者の責任というものがある。敗者が敗者の屈辱に浴する義務を持っているように、勝者は勝者として敗者を救う義務がある。そこを忘れてはいけない。競争は競争相手がいないと成り立たない。一人ではできないのだ。競争は比較論的だ。比較論の最たる物だろう。比べなければそれを理解することができない。競争することで、そのいいところ悪いところが見えてくる。競争は悪いものじゃない。だけど行き過ぎは不幸を呼ぶ。なんでもそうだ。やり過ぎるとみんなが不幸になる。程々が肝要だ。昨今のネットの普及でやり過ぎる者が目立つようになってきた。誰かがやり過ぎると、もっとやり過ぎようとする者が出てくる。そうすることで、やり過ぎが加速していく。よくない傾向だ。ネットのない時代にはそんなやり過ぎ競争は生まれにくかった。なんとなくみんなの共通認識としてこれ以上はダメだみたいなものがあった。たまにそれを逸脱する者が出てくるけど、そのことでやり過ぎが加速することはなかった。ただ、やり過ぎがブレークスルーとなってその界隈を昇華させる働きを持っていることがあった。これを抑制する力にもなっていた。そういう意味ではネットの普及で「ここまでやってもいいんだ」という認識が生まれ、界隈の進歩はずっと速くなったに違いない。そういう意味では競争はネットによって加速された。ネットはなんでも加速する。加速する世の中に付いていかないといけない。これもまた競争と言えるのではないだろうか。競争には勝たないといけない。勝者にしか女神は微笑まない。だから前述のように救済が必要なのだ。この流れの速い時代に救済なくして穏やかな暮らしはあり得ない。穏やかな暮らしこそが競争へのエネルギーを与える。