カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

FW No.4 - 僕とTwitter

Twitterに参加したのは早い時期だった。Twitter開始の年の4月からだ。今年で十五年目。今のアカウントは訳あって6月から参加したものになっているが。それはそれとして。当時のTwitterはインターネットでありながらインターネットではなかった。参加者が少なかったからだ。閉じたグループといった雰囲気が強かった。それに他人が何を言っていようが他人の勝手であり完全な自由であり、気に入らなければ見なければいいという文化だった。僕にとってそこは人生の新天地だった。好きなことが言える場所。何を言ってもいい。自由があった。僕はTwitterで自由に振る舞える。だから今でも比較的自由に振る舞っている。言いたいことは言う。まあ当時のTwitterが自由だったというのは「おっぱいおっぱい!」とか愚にもつかない事を自由に世界へ放てるという色合いが強かったが。とは言え自由は自由だ。否定的なことを言うのも自由だったし、なにかの文句をいうのも自由だった。とにかくTwitterは自由なんだ。そういう文化的背景に立ってTwitterをやっているんだ。そこからいくと今のTwitterは息が詰まりそうな不自由感が漂っている。社会的責任みたいなものが重くのしかかっている。仕方ないことではある。世界中みんなが使っているから社会性が一般的なものに変わったんだ。当時のTwitterは失われた。もう戻ることはない。マストドンあたりにあるのかもしれないが。それはそれとして。Twitterは新しい社会のインフラになった。だからといって今さら僕が今のTwitterの社会性を受け入れて慎ましく発言するなんて無理。だって僕は自由のTwitterとともに十年以上過ごしてきた。人生なんだよ。人生の一部に組み込まれている。自由を謳歌するTwitterなしではどう生きたらいいか分からない。それは僕がほとんど引きこもって生活していることとも関係するんだけど、引きこもっている状態が解消されるでもなければ僕が自然とTwitterとの付き合い方を変えることはないだろう。いや、自然と変ってきてはいるのかな。Twitterそのものが変わってきたのだから。とは言え四十代にもなるおじさんがインターネットという公衆の面前で情けない姿を晒したりする状況は変わるまい。