カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

FW No.86 - 人と話す

2022/08/13 人と話すというのはどういうことなんだろう。長いこと母とくらいしか話していない。母と話すには話題が必要だ。Twitterなんかで見つけて母とでも話せそうな話題を話すようにしている。僕が欲しているのはそういう会話じゃない。もっと自由に話したい。前の恋人と話していたみたいな自由な会話だ。僕の話はしょうもないことが多い。見掛けた看板のフォントが変だとか、別の何かに見えるだとか、脂っこいものが食べたいと言ってみたり、道ばたに落ちているゴミがこの先どうなるのかと心配してみたり、そんな話だ。相手を選ぶように思う。前の恋人は嫌な顔をせずに付き合ってくれた。楽しく話ができた。でも例えば母とはこんな会話できないだろう。不思議そうな顔をされるに違いない。でもどうだろう、恋人になった人ならみんな付き合ってくれそうな気がする。僕のほうが立場が強い状況を想像しているからだろうか。いや、なんというか、話はそれるけど僕は会社とかではしっかりしているので恋人になる人はみんな僕にリードして欲しい人だった。だからなのかもしれない。母は恋人とは立場が違うし、ちょっとはすっぱなところがあるから、僕とはそういう関係になれないのかもしれない。そうであるなら僕は僕にリードして欲しがる恋人との会話を望んでいるのかもしれない。それにしても、じゃぁ僕の会話とはなんだろう。いや、というか会話なんて興味が持てるならなんでもいいはずだ。それが結局僕が話したからといって、いちいち興味を持ってくれるのなら、なんでも成り立つはずだ。僕は思いついたことを好きなように話すのだ。しかし考えてみればそんな自由に話題が出てくるくらいの間柄になるには時間がかかる。僕は人見知りなところがあって、そう、恋人とでもなければすっかり黙ってしまうのだ。いや、自由に話せる状況だと気楽になって話せるのかもしれないな。後輩の女のこととかとなら多少は話せる気がする。やっぱり僕は自分の好きなように振る舞える相手としか上手く話せないのだ。そのことにちょっと情けないものを感じつつ、しかし僕が楽にして一緒に過ごせる相手というのは情けないとか関係なく欲していいのだ。ということで僕にとって僕が望む「人と話す」というのは自由に振る舞うということなのかもしれない。そう言ってしまうと誰だって同じなんじゃないかという気がする。そうじゃないだろうか。それはそれとして、ちょっと路線が変わるんだけど、僕の趣味の話を誰かとしたいかと聞かれると、否、となってしまう。小説の話を誰かとしたいわけじゃない。したい気もするけど、僕は僕の世界で楽しんでいることなので、誰かと今日したいという根源的な欲求はない。ただ他方で学びたいとか社会性を得たいとかいう思いがあって、そのために誰かと話したいという欲求はあるように感じる。だからといって、しかし小説制作についてお互いアマチュアの立場で教えるとかそういうわけにもいかないし、あまりいい会話にならないような気がする。そう言えば、プライベートでの僕はしっかりしていないので、話をしようとすると僕に教えてくれる人がいる。なぜか相手のほうが立場が上なのだ。そりゃぁ僕が認める作家であるなら立場が上として話をしてくれて構わないけど、例え売れっ子作家であったとしても僕が認めてもいないのに上の立場から話をされるんだったらお断りだ。そんな人ととなんて話したくない。そのあたり、結局のところ僕は僕の立場が上でなければ面白くない人間なのかもしれないな。嫌だなぁ。