カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

落書き - gr005 2023-02-02

プログラミングはいい。小説制作より少ない体力で夢中になれる。元気が少ないときでも取り組むことができる。小説制作をするより集中できる。元気があるならウキウキしながら小説制作するのが楽しくていいんだけど。元気のいいときは多くないから、プログラミングの趣味があるのは助かっている。それにしてもネタがない。気の向くネタがないと書くことができない。自分にとって必要な機能でなければ書く気がしないので難しい。必要な機能であってもちょっと面倒なものもあるし。昔書いたプログラムに機能を追加するとか、コードがぐっちゃぐちゃで気分が悪くなる。気乗りがしない。書き直したくなる。書き直せばいいのかな。そんな気がしてきた。やっぱ文字にした考えるとよく考えられるな。

なんで生きているのか分からないときがある。何も楽しくないし、何にも関心が持てない。やる気がなくて多少なりともやりがいを感じられることをすることもできない。少なくともその時点では生きる意味がない。生きていても仕方がない。回復する期待があるから生きるのであって、それがなければどうやって死ぬか真剣に考えないといけない。こういうと「そんなことか」と言われそうだけど、退屈なんだ。皿洗いだって、やれば微量の達成感とともに微量の快の感覚を得ることができる。そういうのがない。快の感覚がまったくない状態というのが退屈だ。退屈は苦痛だ。精神に余裕のある人が「退屈を楽しむ」なんて暢気なこと言うが、そういうのではない。リラックスして快の感覚を得られるそういうのとは違う。

憤りや憎しみというのはエネルギーを生みだすな。プラスの感情から得られるエネルギーで生きるに越したことはないけど、それがないならマイナスの感情で生きるのも仕方ないのか。迷惑な話だけど、同じ社会に生きる者として受け止めないといけないんだろうな。嫌だな。

退屈の手遊びにパソコン画面を上へ下へとスクロールさせていた。ピョッピョッ、ピョッピョッ。おじいちゃんがそんな動きをしていたな。何をしていたのか思い出せない。痒いところを掻いていたでもなし、はて。懐かしい。おじいちゃんは生きていたけど死んでしまった。今はいない。何か不思議に感じる。おじいちゃんの人生とは何だったんだろう。おじいちゃんの人生は、今はもうない。存在していたはずのおじいちゃんは、もういない。無になってしまった。何をしたところで結局無に返ってしまう人生というのは、なんなんだろうなぁ。僕なりの答えは持っているはずなのに、なんだか改めて、人生って不思議なものだと思う。おじいちゃんにもっと懐いた子供だったらよかったのにな。悪いことしちゃったよ。なんとなくね。