カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

FW No.103 - 時計

2022/09/04 時計は便利だ。時間を利用できる。時計がなければ昼食の時間まで空腹を我慢しようだなんてならない。起床の時間を決めておくこともできない。時計があれば時間を目安にして活動することができる。だけど、どちらかと言うと時間に振り回されたり制約されている気がする。時間が利用できて便利なはずなのに、自分より強い権力によって決められた時間に縛られている。これは時計のせいではなく時間があるからだという気がするが、時計がなければ時間もないのだ。時計が作られたから時間が生まれた。時計がない時代。水時計もなく、日時計の知識もない時代。それでも辺りの明るさに従って活動することになるが、少なくと現代よりは時間の概念はずっと希薄だったはずだ。「何時までに」と言うことができない。「日が暮れるまでに」くらいしか言いようがない。中世ヨーロッパでは時間を言い表すのに「食事をするぐらいの時間」とか「馬でどこそこへ行くくらいの時間」とかいうのを使ったらしい。人によって感覚も違うだろうし、時間に関して厳しいことを言うことができない。つまりあらゆる時計機器がない時代には時間なんてあってないようなものだったのだ。時計は我々を豊にもしたが、貧しくもしたと言えるだろう。時計は一昔前ならたまに時刻合わせをしないといけなかった。つまり5分やそこらはずれている可能性が必ずあった。昨今はネットにつながってさえいれば時刻合わせの必要がない。腕時計をする習慣は廃れてスマホを使う。スマホを見れば正確な時間が分かる。掛け時計や腕時計だって電波時計が増えてきた。それでもアナログ時計は電波時計であっても針の位置にずれが生じることもあるようだが、およそ1分以上のずれはあるまい。世の中は時間に正確になってきた。若干だが人を窮屈にしているはずだ。どちらかと言えば正確な時間が分かって便利になったというほうが大きい気がするけれど。ところで、僕は時計はデジタルを選ぶことにしている。デジタルなら安価に上等なものがあるからだ。と言うか、それほど高級なものがない。ないというか少ない。反比例して安価なものが多い。なのでちょっと背伸びすれば上等なものが手に入る。見栄がはりたいのだ。時計はしばしばステータスシンボルだ。昨今ではスマホが時計機能を持っているものだから、わざわざ高い金を出してかうことも少なくなっているようだが。僕も腕時計はしない。もう面倒になった。必要がない。自宅にこもっているからね。それより時計の話だ。自宅で席に着いていて時間を確認するのに壁掛け時計を見てしまう。目の前にパソコンの画面があるのにだ。パソコンに表示された時間は文字が小さい。目が悪い僕には小さすぎる。見て見られないことはないが、なんだかつい壁掛け時計を見てしまう。モニタの時計の字が小さいというより癖なのかもしれない。ところで、カップラーメンが出来上がる時間を計るのにはパソコンの時計は向かない。1分単位だからだ。ちょっと曖昧すぎる。大差ないと言えばそうなんだけど。時報というのがある。117だっけ。177だっけ。時報か、天気予報か、分からない。電話で通話が可能かどうか調べるときにかけることがある。新しいスマホとかで、だ。時報や天気予報はそういうときのために役に立つな、と思っている。もうほとんど利用されないサービスの一つだろう。時報もいずれなくなる。近い将来、「昔は電話で時間を教えてくれるサービスがあったんだって」なんて会話がなされるのかもしれない。インターネット上の時報サービスは日本ならNICTだったか。ntp.nict.jpからゲットできる。具体的な方法は知らない。分かるのは時刻合わせアプリの設定に記述するという程度だ。NICTのサイトを見にいったが「利用者の時刻精度はNTPサーバから利用者の方々までのインターネット環境に応じて数ミリ秒から数百ミリ秒位まで大きく変化する場合があります」とのことだ。時報電波を受信するほうが正確なのかもしれない。そこまで正確である必要もないのだろうが。つい正確性を気にしてしまう。