カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

食欲の行方

 筆が進まない。伸夫は時計に目をやった。昼までにはまだ時間がある。次の食事は遠い。コンビニの唐揚げが脳裏をよぎった。パンケーキの幻影が頭の中で踊っている。伸夫は時計に目をやった。時間が経ったようには見えない。

 今回の定期健診で伸夫は糖尿病の危険があると言われている。何度も言われてきたことだが、今回の数値は特段に悪かった。納得するところもある。間食が明らかに増えていたのだ。マズい、と思いながらもやめられないでいた。医師の言葉に反省させられ、間食しない生活を始めた。

 エアコンの音が聞こえている。天空の城ラピュタに出てくる飛行要塞の音に似ていた。初めて視聴した頃の空気感を思い出す。懐かしむ気持ちに、年を取ったものだと実感させれた。一時の気の紛れが霧散する。伸夫は時計に目をやった。時間が過ぎたようには感じられない。部屋を出てタバコに火を付けた。自室へ続く階段を上がってすぐのところが伸夫の喫煙場所だった。室内にタバコの匂いを付けないための配慮だった。

 煙が腹を満たさないことは承知していたが、食欲を紛らわせるのになんとなく手に取ってしまう。廊下は風通しのために窓を開けていた。屋外の熱気が蝉の声とともに漂ってくる。すだれ越しに隣家の瓦の照り返しが見えた。コンビニへの道のりを想起させられる。立ちこめる熱気が、今は唐揚げへの栄光の道に感じられた。

 タバコを消して戻り、書きかけの小説と向き合う。食べないでいることの苦しみに貧乏揺すりが始まる。筆が進まない。筆を進めるには食べることが必要だ。小説執筆を主な活動とする伸夫にとって食べることが正義のように感じられてくる。垂れ込める暗雲から射した一条の光だ。神々しいまでの冴えたアイディアだ。伸夫は立ち上がった。

 もう耐えることはできない。伸夫は最後の手段を取ると決めた。足取りはいっそさっそうとしている。向かった先はベッドだ。伸夫は夢の中へ逃れることにしたのだった。