カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

思考日記 - 人間性の階位

最近、人間性の階位というのを思うようになった。なにも自分の階位が高いと奢って周囲を見下そうというのではない。単純に、自分や周囲の人の言動から階位が高いとか低いとか思うのだ。

価値観によって階位の付け方も変わるだろう。僕の価値観では悟りを開いたようにいつも穏やかであるような人物が望ましい。内心で怒っていても表面に出さない、というのではなく、怒ることのない精神性がいいと思っている。可能であるかどうかはまた別だけれど。

あー、いや、正直に言おう。階位が低いと見て見下している対象はある。両親がそれだ。怒りっぽいとかいうのではないけど、大衆的なところがある。「水は低きに流れ人の心もまた」みたいな感じだ。大衆的というのはどうしても身勝手だったりするものだから、階位が低く見えてしまう。両親は、まぁ、凡人なのだ。

自分について、僕は自己肯定感が普段は高いほうだから奢っている。自分の階位は多少高めだと認識している。それは身びいきだと分かってはいるけれど、それでも、その上でやはり自分は階位が多少高めだと自認しているのだ。たとえそれが正解だとしても目くそ鼻くそってぇものだと思うのだけど。いや、それでもなお自己認識が奢っているのだ。

それにしても両親を見下しているというのは、両親を許せていないのだ。今の自分に不満があり、その自分をこそ許せていない。つまり「自分の不幸は両親のせいだ」と思っているのだ。人のせいにするのも、自分が不幸だなんて思っていることも、階位の低い証拠なんだけど。

一朝一夕に階位は上がらない。階位は上げようとして上げるものでもない。中には階位を上げることを人生の責務としている人もいるだろう――階位という概念がないにしても――けど、そんなこと気にしながら生きるのは窮屈だろう。いや、窮屈に感じるかどうか、また感じたとしても気にしようとするか、そういったあたりは本人の資質によるだろうなぁ。

それにしても人間性の階位という概念、なんだかなぁ、という気がする。それはつまり、あまり素敵な考え方じゃないように感じる、ということだ。優劣をつけるものでもないだろう、と思う。いや、少なくとも僕が理想とする人物像は、そんなことを考えない。ただクリアな瞳で人間の本質を見抜くのだろう。そしてそれを評価することはない。ただ「それ」として認識するだけだ。高いも低いもない。

まぁね、僕もまだまだですからね。そのうち「階位なんて言ってた時期もあるな」なんて懐かしく思えたならいいのかもしれない。