2022/07/19 僕は子育てなんてしたことない。何を言えるでもないはずだけど子として一家言ある。子は幸せにならないといけない。勝手に作られたのだから、幸せにさせられるべきだ。裏返せば言うと勝手に作ったのだから幸せにしてやるべきだ。産んでやったのだから、後は自分で勝手にしろでは無責任過ぎる。だけど例えば金を与えてやれというのではない。幸せをつかむ力を付けてやるべきだと言いたい。つまり教育だ。広い意味での教育。頭脳的な成長は必要だし、精神的な成長も必要だろう。肉体的にも運動が好きになるような教育をしないといけない。楽に幸せが手に入る世の中でもないのだし、強い力を付けてやる必要があるだろう。それだけの教育をせよ、ということだ。人生を捧げるべきだ。だからといって親が苦しめばいいというのではない。それでは本当の、幸せをつかむ力は身に付かないだろう。親が幸せであるべきだ。子に幸せをつかむ力を付けさせるために親が幸せであるべきだ。趣味を犠牲にしろというのではない。趣味に熱中する姿を見せればいい。だけどやはり子を育てることが最大の仕事だ。怠ってはいけない。怠ってはいけないが、苦労すればいいという訳でもない。賢く育てなくてはならない。学ばないといけない。今はネットでもいろいろ学べる。書籍を探すことも容易になった。学べ。そして自分がどう振る舞うべきか知らないといけない。気分を上げていけ。怠惰ではいけない。怠惰は悪だ。気分を上げれば怠惰でなんかいられないのだから、怠惰でいることは悪だ。怠惰という生き方を多様性に含めてはならない。子育てという生物として最大の仕事があるのなら、自分は怠惰な生き方をする親として振る舞おうなんてあり得ない。コーヒーを飲め。運動できる人間は運動をしろ。ゲームやなんかで夜更かしをするな。それも悪だ。ゲームをするな。夜更かしするくらいなら禁止だ。しっかり寝ろ。最高のパフォーマンスで子育てできるように努力すべきだ。努力すべきだ。死にもの狂いで。というようなことを子として思う。愚かな両親に育てられた僕は不幸だと思う。僕は不幸ではないが、もっと賢い両親や祖父母ならもっと幸せだったかもしれない。少なくとも読書する能力が今より高かっただろう。それは人生に多大な好影響を与えるはずだ。僕はそういうような意味で生まれてきたことに後悔している。後悔の念はないが、恨みに思う気持ちはある。もっとハイパフォーマンスな人間になりたかった。そんな思いを持ちつつ、僕は機会があれば子を成すだろう。無知蒙昧な僕が。それは罪で、外道のすることだと認識しているけど、それでも子を成すだろう。そうだ。それでも子を成すから外道なのだ。