カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

思考日記 - 2023-06-04

参加しているLINEオプチャを忌避する感覚がある。あそこにいると自分が小さくなったような気がする。縮こまって振る舞わないといけない。感じる敬意が薄いんだと思う。現実の生活ではもう少し感じてきた。良きにつけ悪しきにつけだ。

中学生の頃には成績がよかったからクラス内で頭がいいと尊敬を受けていた。高校生の頃はクラスの小さなグループ内では友人としての敬意を受けたし、部活で割と大きな顔をしていた。大学に入ってサークルで過ごす時間の多くは後輩からの敬意を感じる。就職してからも似たようなものだ。いくつかのバイト、仕事をしてきたけど僕は頑張り屋なので評価されていた。それが、件のLINEオプチャでは「ただの変なことを言うおじさん」に成り下がってしまったのだ。

Twitterも敬意を感じる場所ではないけど、自由に振る舞うことができる。基本的に何を言ってもいい。暴力的な発言を普段しないにしても、するかしないかは僕に任されている。LINEオプチャでは紳士的に振る舞わないといけないし、下手すると追い出されてしまう。そんな中で僕への評価が「ただの変なことを言うおじさん」なのだ。縮こまってしまう。

ここでは、だからLINEオプチャがいい悪いという話ではない。自分を分析する場面だと思う。見えてくるのは「程度こそあれ自分がどう扱われるかによって増長もすれば萎縮もする」ということだ。このことを受け入れた上で肯定的に捉えないといけない。僕の態度は卑怯とも言えるし、柔軟とも言える。自分が卑怯な人間なのだということを受け入れないといけない。柔軟でいいことなのだと、これも受け止めなければならない。そして卑怯であれ柔軟であれ、そのことを評価するのではなく肯定すること。自覚的であることが重要だ。

それにしても「増長も萎縮もする」というのは世の中の誰にでも言えることだろう。つまり誰かと接するとき変にへりくだっては増長され、高圧的に接すれば萎縮されるということだ。増長されれば(普通は)利はないし、萎縮されても奔放さがなくなってしまっていいことはない。適度な態度がいいのだろう。

ということで、僕は人並みに卑怯で柔軟なおじさんでした。