カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

落書き - gr038 2023-03-12

観葉植物に水や肥料をやったり時には大きな鉢に植え替えたりしている。持って回った言い方をしているのは自分が何をしていると表現すればいいか分からないからだ。「育てている」と言うには積極的に大きくなるよう気を遣っているわけじゃない。葉が増えたりしたらいいな、と思ってはいるものの水をやったりした結果としてそうなればいいというだけで、葉が増えるように努力しているわけじゃない。「栽培している」と言うと農業っぽさが出てくる。そんな専門的な知識や経験をもって接しているわけじゃない。「飼育」は動物だし、困ってしまう。まぁ便宜的に「育てている」としよう。

育てている植物を眺めつつタバコを吸いながら思う。こいつら恩返しに何かしてくれないだろうか。そして自分に自分で突っ込むわけだ。恩なんてないだろう。そうだ。恩を感じてくれるくらい大切に育てていない。土が乾いたら水をやる、くらいだ。考えてみれば今は亡き飼い猫にもいいことはしてやれなかった。虐待したくらいだ。化けて出られてもおかしくない。虐待したことで精神に傷を負ってでもいたら、僕は地獄に落ちても文句は言えまい。人に対しても恩を感じられるようなことをしたことがない。待合室で席を譲ったくらいの親切しかしていないのだ。そうすると僕は恩を感じてもらえるようなことはしていないんだなぁ、となんとなくしみじみした感覚が胸ににじむ。いや、それが普通だろうよ、と思うけどね。でもなんだか人の役に立っていないみたいで虚しい気分になる。きっと傲慢な思いだな。思い上がりだ。何も成せずに死んでいくのが普通なんだよ。そんな中で自分なりの価値を見付けて満足するしかない。僕は僕の価値を見付けないと。なんだろうなぁ、そりゃぁ。

思えば高校生の頃、学校帰りは苛ついていた。自宅と高校は10kmくらい離れていて、バスはあったけど30分に一本とかだし、自転車で通うのがほとんどの人だった。僕も自転車だ。片道30分。帰りの時間になんだか苛ついて、怒りを向ける対象を探して妄想したりしていた。今思えばストレスだったんだろうなぁ、と。会社から帰ってドカ食いするのと同じ根を持っていたんだ。僕は人前に出るとギアが2~3段上がる。元気になる。小中高は陰キャではあったけど、自室に一人いるときと比べれば快活になっていた。どうもそれがいけないんだと思う。出社拒否を繰り返した理由がそこにあるように思う。

今の僕は昔みたいに働きたいとは思っておらず、元気があるなら小説制作して過ごしたいし、現実問題として働けない精神状態なんだけど、働くのが嫌だという人のことは理解できない。する必要はないのだろうけど、全く想像することもできない心境というのを提示されると反発心が生まれるし、どうにか理解できないものかとも思う。何かを上手くやり遂げると達成感があって快の感覚を味わうことができる。そういうのがないのだろうか。でも向上心がないとは思えないし、じゃぁ自分の好きなこと興味のあることにしか向上心が働かないのだろうか。そう説明されれば理解できずとも納得感はある。とはいえ、働くのが嫌だと言っていた人は絵描きさんなんだけど、ビーチでジュースを飲んでいたいって言ってて、絵を描きたいというわけでもなさそうで、それでいてビーチでジュースなんだから、ちょうど僕がリスペリドンを飲んで穏やかになっているときのような心境なのかもしれない。生活保護を受給して暮らせば幸せになれるのかも。どうなんだろうなぁ。