15年くらい前だろうか。Twitterが始まって間もない頃、Twitterのビジネスモデルが見えなくて心配していた。当時のTwitterとしてはユーザを集めることに注力していてビジネスモデルなんて話は存在しなかったのだと分かる。それで結局、昨今になって儲けを出そうとして出なくて、いろいろと物議を醸す施策が行われる。Twitterというサービスがそもそもお金になりにくい形態なんだろう。何か素晴らしいアイディアがあればブレークスルーも可能なのかもしれないけど、僕なんかよりよほど優れた人たちがよってたかって今があるわけで、難しいのだろうな。そう考えれば有料ユーザというのを取り入れたのも分からないでもない。しかしTwitterで一番問題なのは広告が上手くターゲティングできてないところだと思う。僕に副業を勧めるくらいだし。届くべきユーザに届くべき広告が表示されればクリック数は上がるだろうし、広告主側も費用が下げられそうな気がして、そうすると広告を出す依頼も増えるだろう。まぁ、ターゲティング難しいんだろうけど。
最近、使ったティッシュをポケットに保管するようになった。鼻をかんだやつは捨てるけど、口を拭いたやつとかはまた使えるから取っておく。おばあちゃんがやっていた。ポケットにはいつもいくつかのティッシュが入っていた。今は母がやっている。年を取るとそういうことをするようになるのだろうか。僕も真似をしてやっている。というか、そうなる前から台所の僕の席のところには使い差しのティッシュが置いてあって、食後に口を拭いたりしていた。もったいないのだ。貧しいからというより、もったいない。あんな上質の紙をリサイクルもせずに燃やしてしまうなんて。宇宙ステーションでは小便も大便も水分を分離して飲むのだから、ティッシュも鼻水やなんかをきれいになくしてリサイクルすればいいのに。気分的には嫌だけどね。
僕らはみんな潜在的な人殺しだ。人を殺す意思はないけど、論理的には人が死ぬことを許容している。日本は車社会だ。車が走れば必ず事故が起こる。事故が起これば人が死ぬ。分かりきったことなのに車社会に異を唱えることなく、車社会の利を享受している。自分がいい思いをするなら、ちょっとくらい人が死んでもいいのだ。せめて法定速度を下げれば死者は減るだろうにそうもしない。そりゃぁ死亡事故が起こる確率は低い。だけど低いといえど必ず人が死ぬのだ。僕はそれを悪いと言うつもりはない。人間誰しも自分乗りのために人を犠牲にして生きている。犠牲なくして豊かな生活はない。ただ、そのことに無自覚で無邪気に生きるのはどうかと思う。まぁ自覚したところで、僕などは気にしてもいないけど。
それにしても上記のような話をし始めると人類は絶滅したほうが幸福だ、なんてことになっていく。そうでなくとも多少の犠牲を許容して豊かな社会を作るほうが助かる命も増えるかもしれない。よく分からない話だ。