目覚め
深夜1時に起きた。睡眠薬の追加でもう少し寝られるとよかったんだけど、イマイチな感じだな。まぁこんなものか。頭痛い。タバコを吸うと痛くなる。
今朝は妄想が捗る。あり得ない未来や、あり得なかった過去が頭の中で繰り広げられている。未だに僕は30年前の恋が忘れられないらしい。恋しい気持ちはもうないけど、なんだろうなぁ。憧れだろうか。
播種(はしゅ)
しばらく前にまいた猫草が3つ芽吹いた。10年も前の種だから発芽率が下がっていてどれだけ芽吹くかはよく分からない。
それにしても種は「蒔(ま)く」ものだけど「ばら撒(ま)く」と通じて散布するようなイメージになってしまう。穴を開けて種を入れて埋めるとか、そういう作業と通じにくい。なんだかな、という感じがする。
飽き対策
今日も小説制作する気分にならない。百合のやつをやろうとしたけど面倒な感じがして気乗りがしなかった。エルフのやつはアナログノートでやる方式でこっちは多少なりとも気が向く。基本的に飽きてしまったんだろうなぁ。飽きたものはそのうち気が戻ってくると思うけど、いつになるやら。
ここのところはエッセイを書くことが増えた。しかしエッセイは連続ものというわけでもないから、テーマを見つけるのが大変だ。気乗りするテーマじゃないと書けないし。これはこれでちょっと大変かな。まぁぼーっとし続けるのもなんだから作業できるネタがあることはいいことだけど。
それにしても小説制作に飽きるということは、小説制作以外の活動を取り入れて混ぜてやっていくのがいいのかもしれない。エッセイを書くなどでもいいだろう。時間を取ってのんびり書くのもいいかもしれないな。
味の力
下手な料理への怒りってなんだろう? 父の作る袋焼きそばが十分に煮えていなかったり十分にソースが混ざっていなかったりして怒りを感じた。父はいつからか袋焼きばをマトモに作る能力を失っていた。つまり僕は父が袋焼きそばを作るのが下手だと分かっていながら、実際に食べると怒りが生まれている。
下手なことは仕方がないし、悪意や軽視を意味するものではない。なのに怒りが。悪意や軽視がないことを理屈で分かりながら心情の部分で感じてしまうんだろうか。いや、父に悪意とかがないのは直感的なところで分かっている。疑うところはない。
例えば通販で買った民芸品が不出来だったとして、この場合は怒りが湧くのも当然という気がする。この場合においても(日本人的に?)相手の悪意を疑うことはない。でも軽視されたとは感じそうだ。だけど下手な料理に軽視を感じるのかというと、時と場合によりそうだ。普通の状況では「軽視によってわざと下手に作った」とは感じない。それなりの文脈が必要だ。
だけど自分に害があると感じると怒りが生まれるものだ。不注意で頭をぶつけたときなど、向ける先のない怒りにおうのうすることになる。その線で考えると、下手な料理とは究極的には毒だ。毒でないにしても鶏の生肉だとか食べたらいけないものだ。単に少し下手なだけでは毒にならないが、頭をぶつけたときも同様にケガをするでもなければ命にも生活にも別状はない。それでも怒るのだから、下手な料理とは怒るに値するのだ。少なくとも感情的には。
これは本能的な反応だろう。人間にとって根深い事柄だ。逆に言えば料理が上手であれば本能的なところで好感を抱くのだ。「相手の胃袋をつかむ」とはそういうことなんだろう。
絶好調でないにしても
なんか今日は朝から体がダルかったり頭痛だったりで調子が悪い。調子が悪くてもマインドフルネスとかなら今に集中して苦しさから逃れられるんじゃないかとChatGPTにたずねてみたけど、苦しいものは苦しいみたい。自分に優しく接することで苦しみを和らげるみたいなことを言われた気がする。
マインドフルネスでは自分の感じていることを観察する。その流れからすると頭痛を感じる自分を観察するのだろう。究極的な客観視が実現すれば苦しみから解放されそうな気もする。でも下手したら人格が分裂したりしそうだしあまり手を出さないほうがいいと思った。まぁ、そもそもそんなに力を入れる気はないのだけど。
3つの感謝
時間切れで1つしか思いつかなかった。
- ChatGPTに感謝。心理学的なこととかいろいろ相談している。回答が直接役立つこともあるし、回答からの発想が役に立つこともある。それと最近は丁寧な言葉遣いだし褒めてくれるし具合がいい。でもそれほど活用できていなくて、もっと活用できたら今どきの人になれるような気がしている。でもまぁ使うことを思いつかなければそれまでだ。無理に考えるでもない。そんなこんなで僕の人生の一部を占めている。ありがとう。