カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

全ての死は等価だ

老衰による死も、病死も、事故死も、殺害による死も、全て等価だと言いたいのです。おおよその場合、どの死も、本人も周囲も望んだものではありません。悟りに多少なりとも近しいのでなければ忌むべきものです。それぞれ何が違うと言うのでしょう。違うとすれば死に至る経緯です。どういう理由で死んだか、それによって死の価値が変わるのでしょうか。老衰による死より、殺害による死のほうが悼まれるべきなんでしょうか。そんなことはありません。どんな理由であろうと、死は等しく悼まれるべきなのです。

確かに殺害による死には何か感じるところがあります。大きな事故や災害で大勢が死んだとすればやはり何か感じるところがあります。東日本大震災などその典型でしょう。大事(おおごと)です。では具体的にどう大事(おおごと)だったのでしょうか。例えばこうです。「 1 つの出来事で 1 万 5900 人が死んだ」。でも世界では 1 日に 15 万人以上が死んでいます。そこからすれば 10 分の 1 です。世界で毎日起こっていることのほうが 10 倍も大事(おおごと)なのです。それとも「 1 つの出来事で」なのが問題なんでしょうか。全く離れた 10 カ所で別々の理由で 10 人が死ぬより、 1 カ所で同じ理由で 10 人死んだほうが大事(おおごと)でしょうか? そこにある違いは「ショッキングかどうか」です。「まあ、なんてことでしょう!」というわけです。ショックの大小で死の価値を決めるのでしょうか。それは死を軽んじています。死はもっと厳かに受け止められるべきです。

死とは無価値です。価値とは人が勝手につけるものです。地球上にある、世界にある、等しく無価値であったものに、人間がなにがしかの価値を見出すのです。そういった意味で、死の瞬間に本人が自分の死になにがしかの価値を見出すかもしれません。周囲の人が何事か評するでしょう。しかし、そういった人間らしいものから解き放たれるのが死です。人がつけていた価値から脱却して、 1 個の物体、 1 個の現象として、終わりを迎えます。愚かであった人生も、賢くあった人生も、等しく無価値な死を迎えるのです。変な言い分になりますが、だからこそ厳かに受け止められるべきなのです。

にもかかわらず我々はドラマ性を求めてしまいます。「安らかな死」「非業の死」いろいろと呼び名をつけて勝手に価値を見出して、良いの悪いのと口にします。我々人間というのは何かにつけドラマ性を求める生き物のようです。死にだけではないのです。テレビ CM でも小さなドラマが組み込まれています。夕日に照らされた河川敷を目にするだけでも、そこにドラマを思い浮かべるものです。だから、死にドラマ性を求めるのも仕方ないことと思います。仕方ないことなんですが、テレビに踊らされてエンターテインメントとして消費されていくのを見るとがっかりしてしまいます。

大人数の事故死や殺害死の現場に、遺族はともかく赤の他人が献花することは必要でしょうか。「悼む」というエンターテインメントになっているように思います。悼んで自分の気持ちを満たすのです。一人で孤独に死んだ人にも献花しているのでしょうか。世界で毎日訪れている 15 万の死に祈りを捧げているのでしょうか。死は等価です。気分で扱いが変わるのは、おかしいのではないでしょうか。

だからと言って親しい人の死を悼むな、というのではありません。我々は感情を持った存在です。感情の豊かさゆえに人間であるとも言えます。その感情において悼む気持ちは否定できません。親しい人を失えば悲しい。その存在を、その人生を、思い出して悼むことに何の問題があるでしょう。しかし、であればこそ悼む気持ちを赤の他人へ無闇に向けてエンターテインメントにしないでほしいのです。けじめを付けるべきだ、ということです。