カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

落書き - gr037 2023-03-10

昔のことを思い起こすことが多い方だと思うんだけど、今になって当時の事実に気付くことがある。昔恋人だった人がやけに僕の肛門や耳の穴を舐めるのはスカトロな趣味があったのかな、とか。さらには彼女が自分は淫乱かどうか最中に聞いてくるから僕は優しく否定していてあげたんだけど、実は淫乱だといって罵ってほしかったんだな、などと気付く。で、彼女とは遠距離恋愛の末に寝取られて別れたんだけど、彼女的には本人が言うように淫乱で、たまらんかったのかもしれないなぁと思ったりする。えっちな女の子ってなんだか魅力的に感じるんだけど、それもちょっと考え物かなぁと。いろいろと思わされる。

最近父が僕に対してより母に対して優しいな、と感じる。僕の価値観からしてパートナーには子より僕を愛してほしいから、好ましい風景に見えるのだけど、体の不調や体力の低下が見られる母のことを思うと、感じるものがあるなーと。母の気持ちであるとか、父の気持ちであるとか、僕にとっての母であるとか、父であるとか。ま、僕のほうが先かもしれないけどね。本当に。

小説では登場人物の心理をリアルに描くことが重要とされるけど、例えば長年連れ添ったパートナーであっても自分が死んだときにパートナーが泣くのか案外にしっかり動くのか、それとも全く使い物にならない状態になるのか、言い当てるのは難しいだろう。人の心なんて分かりゃぁしない。強いて言うならリアリティを感じさせられるかどうか、だろう。事実は小説より奇なり、と言う。事実をそのまま書いても奇異すぎて小説としてリアリティがないことがある。そう考えると小説というのは約束事の上に成り立っているおままごとのように陳腐に感じられてくる。まぁ実際のところ陳腐リティあふれる作品を書いているであろう僕がごねたって、リアリティある作品を書いている人にとっては負け犬の遠吠えか。ああ、リアリティ。何がリアリティなんだかすら分からないよ。

昨今の僕はTwitterをしているよりブログ記事になる文章を書いている時間が長い。TwitterSNSと見るのではなく「発言をネットに放つ行為」くらいに捉えるなら、ブログ記事を書くのと同列に扱うことができる。まぁマイクロブログなんて言われていたし。そこらへんからすると、最近の僕はスローに長文を書くことに傾倒している。だからなんだ、よく分からない。

「山あり谷あり」って、どの部分がいいときで、どの部分が悪いときなのか分からないまま46年を生きてきた。グラフの線として捉えるなら山の頂点が一番いいときで谷の底が一番悪いときだろう。でも道として考えるなら山から谷へ向かうときが楽っぽくて(実際には下りはきついが)いいときに思えて谷から山に登るときが大変で悪いときみたいになる。それとも山という象徴、谷という象徴が、グラフとの気のようにそれぞれいいとき悪いときを現しているんだろうか。なんだか分からない。この言葉はどういう成り立ちなんだろう。なんだ、ググったら即出てきた。

「原型は1960年,米国で開発された「THE GAME OF LIFE」だ。 世界21言語に翻訳され、日本版は68年9月に発売。 「人生,山あり谷あり……」。 そんな宣伝がテレビコマーシャルに流れた。」