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カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

感想とは

「小説の感想」と言ったとき、暗黙の了解を排除すれば、書かれたことの解釈も作品の良し悪しも含まれる。何をどう評してもかまわない。だけど僕は自分のルールとして「良し悪しについて言及せず感じ取ったことについてのみ伝える」としている。ここには「人は褒められもけなされもすべきでない」という僕の主義が反映されていて賛否があるだろう。だけどここでは「良し悪しについて言及せず感じ取ったことについてのみ伝える」を出発点とする。

前提

まず「作者への指導は求められねばすべきでない」というのを置きたい。教えてあげたほうが親切だ、というのはある。それはしばしば正しい。主人公が誰か分からない書き方がされていれば、一般的にどうなのか諭したほうが有用な確率は高い。もっとささいなことでも作品をより良くするなら作者のためになる可能性はある。ただ、それ以前の真実として「人は褒められたいもので、篤い尊敬に値しない者から求めてもいないのに指導されたくはない」というのがある。そしてしばしば誰に対しても篤い尊敬などしないのだ。何を言うかではない。誰が言うかが重要なのだ。

で、

「良し悪しについて言及せず感じ取ったことについてのみ伝える」というのは指導を含まない。純然たる感想だ。手前味噌の言い方になるが、これをやっているうちは大きな問題が起こらない。もちろん「そんなふうに感じさせるつもりはなかったのに!」と怒りが生まれる可能性はあるが、常識的な範囲で穏やかなやり取りができるだろう。

好評価

しばしば人は褒められたいものなので感想の中で褒めに値する好評価をするのは歓迎される。単純にうれしいものだ。ただ僕はここに希薄な指導の香りを感じる。「この表現が素晴らしかった」と言われれば「次も同じようにしよう」という思いが生まれても不思議ではない。それに実際に素晴らしい表現だったなら、その作者の作品は次からより良くなるだろう。この構図は指導だ。ほとんど指導の意味合いを含んでいないけれど、皆無ではない。

悪評

良いところの指摘ができるなら悪いところを指摘してもいいだろう、となるのは難しいことではない。それに悪いところが分かれば改善の手掛かりとなり有益だ。作者が望んでいるかどうかは別だが。それにしても悪いところの指摘は指導の意味合いが濃くなる。「悪いところは直す」と考えるのが普通だからだ。つまり「直しなさい」と言っているに等しい。おおむね指導だ。

指導

そして悪いところを指摘しながら「こうしたほうがいい」と言う。これは完全な指導だ。指導とはおよそ高みからするもので、つまり「上から目線」だ。上から目線が心地いいのは特殊性癖の人だけだ。普通は不愉快だ。つまり求められてもいない指導をするのは相手を不愉快にさせる行為だ。そのつもりでやるのでなければ、やらないほうがいい。

まとめ

実際には、感想とはこんなに明確な線引きができるものではない。言い方のニュアンスもあれば、双方の関係性もある。ここで述べたことが一概に言えることでもない。そこいらあたりがバランス感覚というものに委ねられる。これはもう失敗しながら身に付けるしかない。怒らせたり怒ったりしながら、それでもめげずに続けたい。