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カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

FW No.142 - 逆立ち

2023-02-12 逆立ちは僕はできないだろう。太る前でも壁を使ってやっとできる程度だった。今となってはとてもできる気がしない。逆立ちは健康法として認識されることもある。何がいいのか分からないし医学的な根拠もないだろうし、歴史的に逆立ちが健康につながるという認識があるわけでもない。なんか一部の奇特な人が健康にいいといって逆立ちをしているだけだ。逆立ちはしかしできないならできないで、なんだか負けた気がする。負けたというか、そうだな、負けた感じか。できてもお徳ではないと思うけど、できたほうが多少なりとも格好がつく。女の子の前でできないとは言いたくない。できるところを見せて得意がりたい。見栄だ。逆立ちは見栄だ。逆立ちは頭に血が上るらしい。頭の血流がよくなって、よく考えられるようになるんじゃないだろうか。そんな気はなし。でも、僕は眠いときとかに力んで頭をうっ血させて、そしてうっ血を解除することで恍惚の域に達し、そして一時だけ眠気が晴れるという行為をする。頭に血が上るのは何かしらの身体的影響があるのだ。そう考えれば逆立ちで頭に血を上らせるのは何か効果があるのかもしれない。しかし上述した恍惚の域に達するというやつは、たぶん危ない行為だ。脳溢血で死ぬ可能性がある。いや死ねればいいけど、半身不随とかなったらちょっと大変だ。いや、それはともかく逆立ちなんだが、逆立ちといえば言葉の言い回しで「逆立ちしたってできない」なんていう表現がある。逆立ちというのはそのくらい珍奇な行為なのだろう。確かに少なくとも大人になってから逆立ちする機会というのはない。あえてやろうという好奇心や挑戦心みたいなものはなくなる。若い頃はよく分からないけど逆立ちしたことがある。なんとなくしてみたくなったのだ。ちょっと勇気のいる行為だった。結局僕が逆立ちを成功させたのかどうか、考えてみれば覚えていない。僕は逆立ちしたことがあるんだろうか。これは謎だ。なんというか、人生が終わるまでに逆立ちを成功させることで、僕は生きているうちに逆立ちをやったかやってないかがはっきりと確定させることができる。そうなるとダイエットして逆立ちに挑戦せねばならないのではないだろうか。いや、逆立ち如きでダイエットできるものじゃない。そう、逆立ちは「ごとき」なのだ。たいしたことじゃない。どうでもいいことだ。どうでもいいことというのはいろいろあるだろう。変身ポーズを取るかどうかはどうでもいいことだ。そんなことをする気にもならない。比較的簡単なことだというのに。そういったことと比べると逆立ちは難易度の高いどうでもいいことに分類できるだろう。どうでもいいのに難易度が高いなんて、なんて皮肉な存在なんだ。つまり前述したが、逆立ちという行為はそれだけ珍奇なのだ。珍奇珍奇と言っていると、僕としては珍奇なことがやりたいから逆立ちしてみたい欲が高まってきたような気がする。まぁもちろんやらないが。