2022/08/05 迷子と言えば大阪だ。僕は人生で一度だけ大阪で迷子になったことがある。迷子になったと言っても僕を連れていた両親とちょっとの間はぐれていただけで、すぐに合流できたのだけど。大阪には父の兄が2人いてそのうち上の兄のマンションにお邪魔することになった。あ、僕の住まいは山陰にあるのでなんか特急か何かに乗って行ったなじゃないかな。それで駅を歩いているときに迷子になった。何かに気を取られていたのかもしれない。ふと両親の姿を見失ったのだ。あのときの気持ちはなんとなく覚えている。寂しかったし、やばいという焦燥感があった。それに、どうしたらいいのか分からず困惑もしていた。とりあえず前へ前へ進んだら合流できた。両親にもバレてない。怒られずに済んだ。という思い出がある。幸いなことに迷子らしい迷子は他にない。10年くらい前に会社で命じられたお使いに車で出掛けて目的の店を見つけられずに右往左往したけれど、それは迷子とは言わないだろう。ついでにこのときのことを書くと、会社に電話して「分かりません」と言ったら、「店に電話して聞け」と言われた。その発想はなかった。「私は店の近くに来ているはずなのですが、私はどこにいるのでしょう?」という問い合わせをせよというのだ。確かに合理的な方法だ。実際に近くにパチンコ屋があったからそれをランドマークにして会社のほうでは僕の位置が分かったらしい。会社に電話せずに店に電話しろというのだ。ちょっと僕の感覚ではありえない選択なんだけど、店周辺のことなら店が一番よく分かっているはずだ。見せに聞け。この間抜けな方法を僕は一生忘れまい。まぁちょっと迷子っぽい状況であって、僕としては思い出深い出来事になっている。それにしてもおとなになってから迷子というのは恥ずかしいものだ。なぜだかよく分からないけど迷子は恥ずかしい。僕にとって恥ずかしい。誰かが迷子になっていたからといって、恥ずかしいやつめ、と思う訳じゃないけど。しかし今どきはもうみんなスマホを持っているから迷子というのは少ないだろう。山奥の電波の届かないところなどではスマホが地図をダウンロードできないからGPSも役に立たないかもしれないけど、都会のど真ん中で迷子はなさそうに思う。しかし子供は未だスマホを持っていないこともあるようだから気をつけないと迷子になってしまう。こちらで位置を把握できるようなGPS機能のある発信器が必要か。必要か? まぁあればあったで安心できるか。その選択が可能な昨今は便利な世の中なんだろうな。考えてみれば自分の居場所を見せに聞くにしても携帯端末のない時代には公衆電話を探さないといけなかった。基本的には自分が知っているのでない場所へ行くには地図が必要だった。そういう場所探しを何度もしている人なら慣れているかもしれないけど、そうでもなければ不安なことこの上ない。それこそ迷子になってしまうかもしれない。昔はおとなでも簡単に迷子になったのかもしれない。まぁ今よりそこらへんの人に尋ねることが簡単だった時代なのかのしれないけど。