カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

個人の意思は存在しない

誰もが自分は意思を持っていると思っている、感じているでしょうけれど、それは間違いです。個人の意思は存在しません。これは論理的に証明可能なことで、とてもシンプルな話です。

生まれたばかりの赤ちゃんは個人の意思と言えるものを持っているでしょうか。持って生まれた意思様のものがあるでしょうけれど、個人の意思とは言えません。両親に与えられた性質、というようなものです。

少し成長して母親に甘えるようになったとして、これは個人の意思で甘えるようになろうとしてなったものでしょうか。そうではありません。持って生まれた性質が、両親の教育や接し方から影響を受けてそのように反応するようになっただけです。

もう少し成長して学校へ行き、特徴を表すようになったとしても、それは個人の意思でそうなろうとしてなったものではありません。持って生まれた性質と、両親の影響と、学校の影響がそのように振る舞うように性質づけただけです。

これを繰り返していくとどうでしょう。人はみな社会の、世界の様々な物事から影響を受けて反応して今の存在があります。自分の、個人の意思を持つ瞬間は存在しませんでした。世界中の物事が関係性の糸を張り巡らせ、糸が交わったところに新たな物事が発生します。個人の存在とはその新たな物事に過ぎません。

プーチンが侵攻したのはプーチンの意思ではありません。全世界の物事が関連しあって生まれた新たな物事がウクライナ侵攻です。もし KGB 時代の上司が別人ならプーチンは大統領になりすらしていなかったかもしれません。それも、プーチンにどうすることもできない物事の関連性によって。

ウクライナ侵攻はプーチンが起こしたのではありません。全世界の物事の関連性がプーチンという形を取って発生させた新たな物事です。プーチンの罪は全世界の人が負うべきです(正確にはアマゾンの奥地の原住民にどれだけの責任があるのか分かりませんが)。

話が逸れましたね。個人に意思は存在せず、だから個人の罪も存在しないし、個人の栄誉も存在しません。罪は社会全体で負うべきものですし、栄誉は社会全体に還元されねばなりません。我々は社会という生き物なのです。