カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

アウトプットが楽しい

ここ数日は執筆の手が緩くなっているのですが、執筆している時間が楽しいです。 TL を眺めてる場合じゃない!

思い立った

それにしても急にどうしたことでしょうね。発端は先ごろ読んだ「ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論」なんですが、何か書いてみたくなったんですよね。しばらくは書くネタがなくて書けないでいたのですが。 note で書き始めていた日記が後押しになったんでしょうか、なんかよく分からないうちに書けるようになりましたね。

満足

書いていると本当に楽しくて、書けたら満足するし、実に有意義な時間を過ごしています。

 

ムカつきを認識する練習

父には人並みに欠点がありムカつくこともあります。さっきは頭ごなしに否定されてムカつきました。父はそういう人です。理由とともに否定的な意見を述べるのではなく、理由もなく完全否定します。

他人に変化は求められない

こういう諸々のことについて、しかし父に変化を求めることはできません。父が 80 代手前だということを抜きにしても、他人に変化を求めるのは不可能なのです。不愉快な思いをしないためには自分が受け入れられる余裕を手に入れるしかありません。

自分が変わるしかないけど

ここもムカつきポイントです。間違っているのは相手なのに、間違いを正すべきは相手なのに、面倒な変化をしないといけないのが一方的に自分だなんて。理不尽で不条理で、ムカついてしまいます。だけどいちいちムカついているワケにはいきません。

向上心

僕たちは向上心を持って高みを目指さなくてはなりません。なかなかできることではありませんが、叶うならそうなりたい。高みに至って、世の中の幸せを増やすことに貢献したい。その中で自分も幸せでありたい。そう願います。

自分は正しい

どうしてムカついたのか自分の心を観察するといいです。今回は簡単です。否定されればムカつくものだから。人間は自分が正しいと思ってなければいられない存在です。歩くのに右足から先に出したことでさえ無意識の内では正しいことと認識しています。とっさに「右足はダメだ」と言われればムッとします。

否定されるのは「お前は間違っている」と、存在を脅かされたようなものです。そのままではいられません。反発して押し返さないと、自分が自分でいられなくなるのです。この反発がムカつきです。

ムカつきを自覚する

こういったことを、いちいち認識して自分の心のあり様を観察します。観察するうちに自身の心の動きがつかめるようになるはずです。十分に理解したらムカつきも起こらないと思うのです。もしくは抑えるのも簡単になるんじゃないでしょうか。練習ですね。練習の機会が来てほしくはないですが、機会があれば練習したいところです。

Shift + Enter に再会

そう言えばそんな入力があったな、と思い出しました。長いことテキストエディタでばかり書いていたし、掲載先メディアがあるわけでもなし、僕の成果には無用だったのです。

はてなブログ

はてなブログを再開して、再会しました。その後はてなブログで直接は書かなくなったのですが、執筆環境の Notion にも同じ概念がありました。つまり難しく言うと改行と改段落の違いですね。ワードプロセッサにもある概念で、段落間は行間より空けよう、とか表示のバリエーションが生まれるわけです。

今どき

スマホでは操作が面倒だから淘汰されているかもしれませんね。そもそも微妙な話ですし。パワポみたいな雰囲気で note で書いていたら需要もないのかも。「忘れていたくせに」と言われそうですが HTML の処理をするのに必用なので概念は使っていましたさ。

歴史的には

それにしても文筆業に端を発する概念ですが、ウェブ小説ではすっかり見かけませんね。かつてのケータイ小説の時点でなくなったのでしょう。小説家になろうは機能が低いですから取り入れなかったのでしょうし。というか、日本の文筆業には存在しないのかも。

僕は

この僕のブログではカスタマイズして段落間には行間より幅を取っています。少しですけど、密が避けられて読みやすくなっているつもりです。小説では行を入れて間隔を作っています。書籍化されたらそのまま入稿でいいのかなぁ。テキストエディタの高度な置換機能で書き換えは簡単なんですが。

ノード名を文字列で取得する

childNodes[0] は String ではないので childNodes[0].match(/.../) などとするとエラーが出ます。 childNodes[0].localName とするといいようです。

事例

let pIndex = () => {
  for (i = 0; i < elm_text.childNodes.length; i++) {
    if (elm_text.childNodes[i].localName.match(/<p>/)) {
      return i
    }
  }
}

漢字と平仮名の割合

小説作品で漢字を開くか閉じるか(平仮名にするか漢字にするか)というのは一つの考えどころです。どう考えるか、一つには雰囲気作りがあると思いますが、大きなところでは読みやすさではないでしょうか。

たぶん

漢字と平仮名の量は 3:7 くらいが読みやすいのではないかと想像しています。たぶん多くの書物でそのくらいになっているのだと思います。そう考えると、あまり悩まなくても普通に書いていれば読みやすくなるような気がします。なんだ、適当でいいのか。

だけど

個人的なこだわりがあります。名詞や動詞は漢字にしたいと思っているのです(名詞形動なんかどうしようか迷うけど)。複合動詞の後項も漢字にしたいとも。「召し上がる」「叩き出す」など。こうなってくると漢字の割合が増えます。読みにくくなるんでしょうか。大人げないこだわりのように感じてしまいます。