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カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

日記差分 - 2026-04-15

善の所在

善悪の判断をつけることと、自分がどちらを選ぶかは別だと思っている。基本的には善をなしたいけど、利益のためには悪事も働く。例えば広告で成り立っているウェブサービスを利用するのに広告を表示しないツールを使うなどは卑怯で道義上の悪行だと思う。だけど僕はやっている。善である必要はないのだ。

自己弁護するのにもっと悪いことをしている人がいるなどと言うのは詭弁だ。言っていることは事実だろうけど、どんなささいなことでも悪行は悪行だ。そこから言い逃れをするのは卑怯な行いで、それこそ悪行だ。悪いことをするならそのことをしっかり意識した上で行うべきだ。それが誠実に生きるということだと思う。

そもそも僕は運命論者だった

幸せをつかむ素養の一つに知性があると思う。誰しも選べない環境というのがある。生まれる環境や体質や才能、運。幸せから遠い人もいるだろう。だけどそのことを訴えても、そのことに不貞腐れても、何も改善しない。このことは「置かれた場所で咲きなさい」としかならない。

しかし置かれた場所で咲くには知性が必要だ。愚痴を言って過ごすのではなく、前向きに幸せに向かって努力しないといけない。「何が幸せなのか」という一般解を得ないといけないし、「自分の幸せは何か」にも気づかないといけない。最低でもそこに手がかかる知性が必要なのだ。

そうすると結局のところ全ては運なんじゃないかとなる。生まれる環境にしろ生まれ持った性質や才能にしろ、その後たどることの可能な道にしろ、運だ。そして幸せをつかむのに必要な知性を得られるかどうかも運だ。結局「運」であることはこの文章を書いているなかで発見したんだけど、人生ってはかないね。

リアルとリアリティ

事実は小説よりも奇なり。これは小説で書いたらウソくさくなることも事実であれば「わぁすごい」と認めざるをえないからだ。小説では書けることが限られる。アマ作家の人がこのあたりを納得するには少し経験が必要なようだ。

本物志向で時代考証して事実を書いたらウソくさくなってしまったなど。リアリティがない、というやつだ。実際にはウソでも本当っぽいことを書かないとリアリティが生まれない。だけど僕なんかは事実と異なると突っ込まれるのが怖くて事実を追いかけてしまう。

だけどウソくさい事実をリアリティ豊かに書く方法もある。ストーリーのなかで上手く説明してリアリティを持たせるのだ。説明と言ってもクドクド書くのではない。キャラクターの行動を通して納得感を持たせるのだ。ただ、よほど書きたいことでもないと、それに割く文字数がもったいない。小説では無駄を削ることが美徳とされているのだし。