美しき愛と醜悪な感情
僕は他人にどう見られるかを気にするほうなんだけど、母はもっと気にするみたいだ。49歳無職の嫁なしでキチガイの病気の僕には人目につかないでほしいらしい。因習村の典型みたいな話だろうか。こういう事実に愛の限界を感じる。僕に対する愛はあるんだろうけど、他方で自分がみっともない息子を持っていると思われたくない。こんな器量なしなのにそのことに気づいてすらいない。愚かな田舎者だ。
そういうワケで僕としては愛というものをわりと覚めた目で見ている部分がある。物語に描かれる愛は美しいけど、現実の愛というのはその他の醜い感情とない交ぜになってマーブルだ。本人の人格が向上することによって愛や他の感情が洗練されて美しい愛の姿をなすのかもしれないけど。
人間の多面性なんだろう。こういう事実はアマ作家の端くれとして、よく見ておかないといけないと思う。僕はこういうテーマで書くことはないと思うけど。それでも世界観に表れるのかもしれない。しかしそう考えると、愛が美しいまま描かれる作品にはそれなりの良さがあるのだろう。であれば人間の多面性にそんなにこだわらないでもいいのかなぁ。
芸術家しかない
完全な芸術家は仕事をしないのだろう。自分の表現したいものを表現するのみだ。仕事、つまり金のために忖度することがない。完全な芸術家は趣味でやっていて、趣味で作ったものが結果として売れて飯の種になる。
僕はそれになりたいのだと気づいた。僕は芸術家ではなくクラフトマンだけど、小説制作に対する態度は芸術家のそれだ。少なくとも今は読者のために書いていない。僕が満足するために書いている。そしてこの先も、僕の奇特な性格上、自分が気に入ったことしか実行できないだろう。
実際に僕の作品に世間で価値がつくのかは分からない。しかし、うつ病を患った後の僕は出社して仕事をすることができない。大勢の他人と一緒に8時間も過ごすことは絶大なストレスになって出社拒否を起こす。内職も無理だ。責任が発生したところで重荷になって寝込んでしまう。
そうであるなら小説家は無理だ。責任は必ず発生する。だから芸術家になりたいのだ。趣味としてやったことが結果として金になる。そういう在り方しかできない。もしくは生活保護だ。
命の重さ
食事で、命をいただいたことに感謝する。これが全く気に入らない。謙虚な態度だとは感じるけど、命を奪ったことは感謝して済むんだろうか。命はそんなに軽いのだろうか。本来なら自分の命を捧げてしか償えない罪なんじゃないだろうか。それならいっそ傲慢に喰らうほうが真摯に思える。というか、感謝して済むと思うほうがよほど傲慢だと思う。