寝起き
わりとスッキリ起きられたかな、と思っている。でも眠気が残っているというか、いや、気分が穏やかになってしまっていて、明るい気持ちにならない。これはこれで悪くないけど、もっと上がってくれたほうが楽しくていいな。活動的でいられるし。
そう言えば昨日は午前中の間は眠くて何もできなかったんだ。そのことを考えれば今日はかなりマシだ。朝食をすれば覚めそうな眠気だし、何かしら活動できそう。
社会性フィルター
Xでペナルティを食らっていた。ポストが暴力的な内容だということだ。兵庫県知事について、あえて暴力的に言うことで、彼がサンドバッグになっていることの是非を問うものだった。ただまぁ普通に暴力的な内容だったので仕方ない。
12時間の間ポストや反応をすることができない。流れてくるポストを見るだけだ。だいぶんつまらない。いいね・RPするのが面白いのに。翼をもがれた天使の気分だ。天使なんて自認はないけど……。
社会性フィルターを思う。社会への適応のために言ってはならないことをフィルターして自粛することだ。こういう制約というのは表現の自由と衝突するのだと身をもって知った。不自由さを感じる。反発する人がいるのも当然か、という気がする。
やっぱり
眠い。朝食後は眠気が取れるかと思ったけど眠い。抵抗感なく寝た。1時間ほど寝た。寝ても眠い。また寝ようかと思ったけど暑い。エアコンをつけないと。あと腹の調子が悪いから正露丸を飲まないと。それに水差し?に水をくまないと。
のそのそとそれらをやっつけて自室で椅子に座ると眠気がずいぶん少なくなっている。でも動かないでいるのが気分がいい。退屈の苦しみはないし、ボケボケして過ごすのも悪くない。
僕のやり方
小説制作をしていた。ボケボケしている必要もないと気づいたのだ。しかし気合いが入らないのでのろのろと進めた。ビシビシと発想を得るような状態ではないけど、思考ノートというツールがあれば考えることに不自由はしない。のろのろとであっても進められる。
普通の人はどうやって小説を作っているのかと不思議に感じる。僕がやるとなかなか進まない。一つのことを考えるのに思考ノートの1ファイルを費やさないといけない。でも世間?的にはもっとスピーディーに書いている感じがする。そんなことが、どうやったらできるのか。
まぁない物ねだりをしても仕方がない。僕には僕に合ったやり方があって、他人とは違う。サクサク考えられればうれしいけど無理なものは無理だ。前を向いて進まないと。よそ見も必要なんだけど、それは前を向いて歩いているから成り立つことだ。
男性自身
それにしても気持ちが穏やかだ。元気がない。穏やかで苦しさがないのはいいことだ。でももっとシャキシャキやりたい気もする。
精力と関わりがある気がしていて。生物の存在意義の多くを交配が握っている、という気がしている。情動は性欲から生まれるのでは。
であるなら男性自身をたくましくするサプリも欲しくなるというものだ。お金がないから買うことはできないけど、こういうのに頼りたい人の気持ちが分かる。年を取ってボヤンと穏やかになってしまった自分に物足りなさがあるのだ。
心=
心は「感情+欲求+興味」なんじゃないかという思いつきがあった。感情は受け取る力で、欲求は求める力。ここに興味を入れるべきかは迷っている。感情の一種か、という気がしたり、しなかったり。よく分からない。
欲求は性欲を元にして、性欲を満たすために必要なもの求めるのが欲求全体なんじゃないかと思ったり。でも食欲も根源的な欲求だし、前述は言いすぎか。
ペナルティの効用
Xでペナルティを負って自由に使えない。いいねできないくらいなら使わないほうがマシだ、ということで使っていない。すると思索する時間や日記を書く時間が増えた。日記を書く時間が増えることに有意性がどれほどあるかは分からない。でも思索が増えるのは歓迎したい。
考えようとして考えるのではない。暇な時間を過ごしていると考えが浮かんでくる。環境を整えてやらないとできないことだ。さっきまでXをやっていて、急に思索しようとしても上手くいかない。Xを控えるようにしたほうが幸せなのかもしれない。
ただこれは僕の調子がいいことが前提だ。具合が悪いと思索している場合でもない。苦しいから、考えのじゃまになる。となるとXに逃げるしかない。だから歓迎すべき状態を得るには調子を整えることかなぁ。
癖
性癖は途絶えることがある。幼少の頃にあった好みが失われ、大きくなってから芽吹くこともある。
幼稚園か小学校低学年か「こたつの中にこもってウルトラマンがやられているシーンを想像して苦しみの声を上げる」行いにふけっていた。祖父がやめるように言ったのでそれ以来はなくなった。
30歳前だった。ゲーム「Fate/stay night」でヒロインが陵辱されるシーンを見て幼少の頃の種が芽吹いた。大変な衝撃だった。これまでこんなことに興味があるなんて思いもしなかった。運命のいたずら、みたいなものを感じる。
ギア
午後になって小説制作やらの作業が面倒になった。考えてみるに、朝は低調に始まっていろいろやっているうちに調子が出てきた。昼食してリセット。でも気持ちの上ではその調子が上がったままなのではないか。心身の調子は朝程度に下がっていて。これでは忌避感が湧くだろう。心の調子を下げないと。どうやったら下がるのか知らんけど。
秋になり
Xが使えないので何かしらの作業をしないなら日記のタブを開いてしまう。で、なんか書くわけだけど。あんまりたくさん書いてもな、と思う。読む人にとって文章量が多いと飽きてきて退屈しないだろうか、と。飽きたら読むのをやめればいいんだけど、合理的にばかりできていないのが僕らだから、なんとなく読んで疲れてしまうかもしれない。でも書いちゃう。他にすることないし。
面白いことはいいことだ
僕らは感情について考えるときですら合理性の文脈で語る。どうして怒っているのか論理的に理解して対処しようとする。生命についてだって生存本能や生殖本能で説明される。「一つの本の人を恐れよ」(トーマス・アクィナス)というのがあるけど、一つの価値観でのみ捉えていていいのだろうか。
ChatGPTに相談したら「存在の無価値性」とか「偶然性」とかなんか言っていた。合理的でない、非合理を表現しているんだろう。確かに、価値を見出すのは僕らだから、僕らの外から眺めれば僕らは無価値だ。偶然性なんて存在しないと思っているけど、宇宙を渡る微粒子が脳細胞のどっかに追突したことでカオス理論が云々して何かをひらめくとしたら、偶然に限りなく近いと言える。
つまり、何かについて理由はともあれ目の前にあるものを素直な感情で受け入れる、ということだろうか。カツ丼は美味しい。それだけだ。フツーにやっていることだった。でも重要な場面で変に頭でっかちになって理屈にばかり頼るのは「面白くない」のかもしれない。
キツネリス
父が入院から帰ってきた。昼過ぎだった。いつもなら仕事や作業の疲れが出てイライラしているはずだ。今日は空気が柔らかいような気がした。そこでふと気づいた。僕はこれまで父を恐れすぎていたのではないか、と。ゆえに父も僕を恐れて静かな怒りを振りまいていたのだ。
クマが人間を恐れているのはそこそこ有名だと思う。捕食のために襲うことは少ないようだ。クマは恐怖から人間を襲う。恐怖を払うのは怒りだ。クマは人間に怒っている。ここで人間まで恐怖から怒ったのでは平和に終わるはずがない。恐怖 vs 恐怖。怒り vs 怒り。
相手を恐れて警戒すると、相手もこちらを恐れて警戒する。そう思う。警戒のレベルならいいけど、我知らず威嚇になっているかもしれないし、相手も意識しないままに威嚇されているかもしれない。「風の谷のナウシカ」でナウシカがキツネリスを手懐けたシーンは覚えているだろうか。かまれても驚かない覚悟が要るのかもしれない。
時間がないと落ち着かない
あと15分したら風呂の順番待ちで台所へ移動する時間になる。このくらい余裕がないと日記を書くよりXをしたい。日記で一題書けるか分からないそわそわがイヤだ。でもXのペナルティが解放されるのもそのくらいの時間。小説制作する感じではないし、やっぱり日記を書くしかない。イヤイヤ書いているというのでもないけど落ち着き感がないね。
こそあど
「この」「その」とかの指示語を使うと文が曖昧になる。何を指しているのかはっきりしないから読むのに労力が必要だ。結局よく分からないことだってあるし。小説ハウツーで指示語を使うなとあったし、僕はほとんど使わない。指示語を使わないで、また指示語が指す言葉を何度も使わないで書ける文章を書くのがいいのだと思う。