カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

敬称、著名人に付けるか付けないか

敬称を付けないと失礼に感じる一方、付けると妙に親しげでかえって失礼に感じてしまう。僕の場合はどちらでも失礼に感じてしまうのだ。どうすりゃいいんだ、という話である。

雲上の存在には付けない

文字どおり雲の上にいる人には付けない傾向があるだろう。アリストテレスチンギス・カン織田信長夏目漱石、など。しかし偉い人には敬称のような雰囲気のある「称号」が付くことがある。アレキサンダー大王、カール大帝聖徳太子、その他代々の王様には◯◯王と付くし、日本では天皇について◯◯天皇と呼ぶ。とはいえ、そういった例外があるにせよ、王皇族貴族でなければ敬称は付かないのが普通ではなかろうか。

だが亡くなったのがそれほど昔でない場合は難しくなってくる。坂本龍馬さんとは言わないが、坂本九さんとアナウンサーは呼びそうだ。著しく申し訳ないが、教授が雲上の人になっても坂本龍一さんと敬称を付けてアナウンサーは呼ぶだろう。今現在から50年とか100年昔がグレーゾーンだ。

アナウンサーは公人だから丁寧な呼名が要求される。一方、我々一般人の場合は少し敬称の付かない場合が増えるだろう。外国の著名人は敬称のないことが多い。スティーヴン・キング、エフゲニア・メドベージェワ、など。ブラピのように略される人までいる。しかし、国内になると状況が動いているように感じる。

今どきの事情

僕は 1977 年生まれでこの記事の執筆時では 46 歳だ。僕の従来の感覚だと有名人には敬称を付けないのが自然に感じられていた。同年代の人には次の意味する文化的背景が理解できると思うが、つまりインターネットの存在しない時代に生まれたのだ。今どき感じる著名人の近さはなかった。 Twitter という僕らと同じ地平に立って僕らと同じようにツイートしたりはしない。

僕はこの感覚を「人格」と呼んでいるのだが、例えば「相手に悪言を吐きかければ傷つく」という感覚が薄かった。現実問題として悪言を吐きかけようにも相手がどこにいるのかすら分からない。「住む世界が違う」という表現があるが、現実問題として言葉どおりだった。そういったことから、人格を感じないので敬称を付けるという発想がない。それが少なくとも僕だった。

昨今のSNSでは芸能人などに敬称を付けている様子を見掛けることがある。新しいな、と感じる。新人類だ(古い言葉です)。僕も古いままでいるのは嫌だから真似したいところだが、ネイティブでないのでさじ加減が分からない。上述のとおり敬称を付ける付けないの線引きをするには議論の余地がある。もっと細かく言うなら芸能人でなくても著名な人はいるし(堀江貴文氏など)、 YouTuber や VTuber もいる。きっと新人類たちもはっきり線引きしてはいないはずだ。

距離感

ここまで来ると「じゃぁ全員に付けとけば」となるのだが、冒頭に帰って、距離感が近過ぎるのだ。まるで知り合いや同じレベルの人間のようだ。上述では「堀江貴文氏」などと書いているが、気後れしてしまう。今どきはみんな平等で同じ地平に立つ人間なのだ、という感覚が強いのかもしれない。慣れねばならん、という気はする。

こんなに理屈っぽくならなくてもいいのに、とも思われるかもしれない。だが、全く感覚的に合わないところへ僕は踏み出そうとしているのだ。ガイドが必要だ。ガイドがなければ分からないし、間違えそうで恐ろしい。こっぱずかしいのだ。恥ずかしくて礼を欠くとは子供のようで情けないが。

世の中をよく見るしかないな。文化は体験しないと分からないだろう。文化に触れ、自ら文化になるのだ。新しい世界に歩き出さないと。ネットは広大だわ

 

人格について

上述の人格について補足説明が必要かもしれない。例えば木に人格がないという認識はおおよそ共有できるはずだ。僕が何を意味して人格と言っているか理解していなくとも分かり合えるだろう。ではこの木に、木の顔が出現して言葉をしゃべったらどうだろう。驚愕するのは置いておいて、悪言を吐きかければ傷ついたり怒ったりすること、褒めでもすれば喜ぶだろうことが瞬時に理解されるはずだ。その理解したものが人格だ。人格を感じた瞬間だ。

物事を理解する上で両極端を知ることは重要だが、グレーゾーンを知ることも大切だ。例えばこうだ。

家族と暮らしているあなたが一人で旅行した。帰りに土産を買うかもしれない。だがペットに土産を買うだろうか。買う人は少ないと思っている。ペットは饅頭を食べないから忘れていたという言い訳は通らない。小麦アレルギーの弟がいたら別の何かを探したはずだ。飼い猫のミミちゃんのために自宅近くでは見掛けないペットフードを探す努力をしてもいいはずなのに。それがつまりグレーゾーン。半分くらいの人格を感じているのだ。

以上、明確に定義できなくて申し訳ないが、多少なりとも理解につながるものと思っている。