カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

いびつな精神の嘆き

純文学とか、文芸とか、いっそエッセイ、いやもっと言えばラノベだって。およその小説は面白さが分からない。読んでいて退屈だ。退屈で読んでられない。ラノベなら趣味が合わないのだと納得することもできる。しかし純文学とか、とかく高尚さのあるものなどは理解する感性がないのではないか、そんな考えになる。

優しい人は「感性に合わないだけだよ」と言ってくれるだろう。そういう表現は可能だ。でもそこには感性が鈍いという意味も含まれているだろう。鈍い感性に合わないわけだ。気に病むことではないのだろう。気に病んでも仕方ないのだから。でもやっぱ悔しいじゃないか。劣等だと感じてしまうじゃないか。

小説制作のコミュニティで、僕の理解できない文学分野についての会話がなされる。こんな表現が深いだとか、もしもこうだったら大変だとか、楽しげに語らっている。でも僕は参加することができない。そんな作品を読んだこともなければ、深いとはどういうことかも理解できない。向こう側の世界が輝いて見える。羨ましい。悔しい。

これには僕のある事情が関係するだろう。僕は自分の頭がいいと思っていなければいられないのだ。頭がいいつもりでいなければ精神が耐えられない。田舎の町の神童だった。精神の成長期に輝かしい時間を経験した。挫折してもなおそのときの自意識が拭われることはなかった。頭のいい僕に理解できないことがあるなんて受け入れられない。受け入れられないのに現実が突き付けられる。

理想的な精神にたどり着く方法はないだろう。あったとしても寿命が足りない。僕は不格好な精神を引きずって生きていくしかない。いびつで格好が悪く、とても人様には見せられない僕自身をぼろきれで隠しながら、痛みをこらえて歩いていくのだ。きっと大勢がそうだから、悲観することではないのだろうけど。いや、しかし苦しいのは嬉しくないね。ため息が出るよ。