カメリアの記事

意味があることやないことを綴ります

これは嘆きです

僕の部屋は離れの2階にあって、部屋を出ると階段まで3畳ほどの空間がある。僕はそこでタバコを吸うから窓はこの季節でも開けてある。近所のスーパーのクリスマスソングが聞こえてくる。片田舎の、洗練とはほど遠い地にも、元々は洗練された文化の一端が流れている。スーパーの前には幸せが漂っているに違いない。実際にはそんなものではないような気がするが、僕にはそんな風に聞こえる。退屈な午後、外からみっともない息子の姿が見えないよう下ろされたすだれの前で、ぼんやりタバコを吹かす僕には、そのように聞こえるのだ。

見失った人生で、それでも少しはいい暮らしがしたいと全てを賭けて望んでいる小説制作ははかばかしくない。しょせん凡人。分かりたくもない現実。案外に才能があって華々しくデビューしていい暮らしができるんじゃないかなどと夢を見たものだが、現実は甘くない。地べたにはいつくばって泥にまみれてグダグダになってやっと自給自足のようにおまんが食える。良くてその程度だろう。

苦労はしたくない。普通に苦労はしたくない。普通に苦労はしなくないし、僕は苦労の末に病気になった人間だ。僕にとって苦労は禁忌だ。そう思いたい。苦労はしたくないからだ。苦労が多少なりとも報われているうちはよかった。実際には報われてなどおらず、預金もなしに無慚なおっさんに成り果てるのだとしても、当時はお金を使って楽しんでいた。刹那的、などと言うには貧相な暮らしだったが、刹那的には楽しんでいたのだ。

しかし苦労する方向に進むのが真っ当で近道なんだろうか。苦労とは何だ。今の僕はネガティブだ。いじけてこれを書いている。こんな気分だから苦労が嫌なんだろうか。確かに楽しい苦労ならいくらでもしたいと思っていたはずじゃないか。

いじけている。才能のなさを突き付けられていじけている。いじけている44歳である。ままならない。涙が出そうだ。ここ10年ちょっとは辛い人生を送ってきたが、辛くて苦しんでいただけで、人生経験には乏しい。子供だ。何をやってきたんだ。もっと苦しめばよかったのか。もっと自分の心に意識を向けるべきだったのか。なぜそうならなかったのか。俺のせいか。俺のせいなのか。俺のせいだ。僕のせいなのだ。結局自分のことは自分でやるしかない。もっと高尚な家庭に生まれていれば高尚な人間に育っていただろうが、そんなこと言ったって仕方ない。置かれた場所で咲きなさい。そうですね。そんな本を読むような場所には置かれなかったよ。

僕はこれを書いて救われているのか。これを書かなかったら包丁を持って街へ繰り出しているかもしれないよね。こうやって書き出すことができるだけでも救われているのか。慰めにはならない。苦しいなぁ。今どき苦しい人は大勢いるんだろうか。仲間がいると思えば気が楽になる気もする。それでいて自分だけ抜け出したいと思っている。それはきっとみんなも一緒だ。事情だけが僕たちを仲間として紐付けている。事情って何だろうな。これってテーマになりますか。